受験生

今日は8時間勉強した。今日一日休日であることを考えると、12時間は出来たかもしれないが、大学受験生の夏休みでもないのに8時間出来たのは我ながら頑張ったと思う。充実感が大きい。でも、大半が英語の時間で、それも英単語であることを考えると、意味は薄い。絶対的な量は必要になるとはいえ、もう少しバランスよくやらないとダメだ。

とりあえず明日も頑張ろう。明日はバイトがあるけれども、それと近江との勉強以外は自分の好きなように使える。日本史もばっちり終わらせて、英語もしっかりやって・・・そういう日にしたい。やっぱり学生は勉強しないとダメだ。特に院生はしないとダメだ。本当は修論にもっと時間を割かないといけないのだけれど、それは夏休みに集中的にやることにして、今は基礎の完成を急ごう。

何よりも疲れた。昨日のパンプと、今日の昼のコンバットの影響もあるのだけれど、何よりも勉強で疲れた。勉強して肉体に疲労感を感じるのは久しぶりだ。大学受験のとき、究極に集中したあとは息切れした。初めてその体験をしたときは驚いたが、それに近いところまで来ている気がする。いい感じだ。これを明日も続けられれば、ペースがつかめる気がする。今日はゆっくり休んで、明日に備えよう。

人間失格堕落論

今日で前期の発表系の授業が全部終わった。だから自分の研究に専念出来る。というか専念しなければならない。しかし、このところ毎週木曜日はブルーだ。それはサブゼミの発表がドクターの人々によって担われるようになったからなのです。大学院に入って浮かれてた頃が懐かしい!何に浮かれてたんだ!勉強しろ!

ドクターの先輩方の発表を聞いていると、知識の広さと鋭い視点に愕然とさせられる。同じ史料を見ているはずなのに、着目点が全然違う。先輩方が何年研究を続けてこられたのかはよくわからない。働いている方が大半だというが、大学などで職を得ている人が多いようだ。働きながら研究するなんて、どれだけ忙しい生活なのだろうか。

正直、レベルの違う方々に囲まれて勉強出来るのは、刺激的だ。学部時代の勉強が、底の浅い大学受験のときの勉強に思うようになった。きっとドクターから見たら、マスターの勉強なんて基礎中の基礎でしかないはずだ。大学の教授になろうかという人なのだから当たり前か。

しかし、仮に自分がドクターまで進むとして、あれほどになれるだろうか。なれない気がする。サブゼミではいつも発言出来ていない。それは決してさぼっているのではなく、レベルが違いすぎて理解出来ていないからだ。活発な議論が行われているのに、自分はそれに参加するどころかついていくことすら出来ない。これで勉強していて追いつけるのか・・・いつも不安になる。

まだ修士1年だから、と言い訳もしたくなる。しかし自分はドクターには進まない。だから修士が最後の課程だ。このうちに高い学力を身につけておきたい。いや、身につけなければならない。もう二度とまとまった時間を確保して勉強する機会など来ないのだから。

もし仮に、大学院入学からの進歩を感じられずに卒業してしまったら、きっと劣等感に苛まれながら生きていくことになる。教授はまだ良い。教授になるまでに激烈な椅子取りゲームがあるのだろうから、教授が優秀なのは当然だとして諦めもつく。ただ、ドクターまでなら(というと大変失礼にあたるが)、自分がそれを望み、一生懸命学問に励めば、進める範囲の気がする。そして、修士を出たあとにすぐ博士というなら、修士を出る時点で博士に入れる学力、つまりサブゼミで発言出来る実力がついていなければならない。

それが出来るか不安だ。本当に不安だ。いつまでも歴史の表面をなぞるばかりで、本質に切り込んでいけていない気がする。本当ならば、もっと専門的な研究を進めるべきなのだろうが、その基礎が確立されていないのでそれも出来ない。結局、学部時代の不勉強のつけが今になって回ってきている。

やってみなければわからない。それはそうだ。2年後には、サブゼミでどんどん発言出来ているかもしれない。ただ、そんな自分を全く想像出来ないのが悔しい。もっと高いレベルを知りながら、そこに到達すること無く卒業することだけはしたくない。せめてドクターの仲間に、しっぽの先だけでも良いから入りたい。今日もまた、そう思った。

5年は大きい

昨日、日本史の勉強するのを諦めて、野村総研の夏期インターンの志望動機等を1時間くらいかけて書いた。お題が4つあって、「将来実現したいこと」「大学で学んでいること」「これまでの経験」「自分について」をそれぞれ300、1000、1000、300で書かなければならなかった。提出期限が翌日の午後だったので、結構焦って書いた。

その中でも「これまでの経験」は結構上手く書けたと思う。「1000字もあるからバイトの話だけでは足りないな」と思って、バイトと読書をテーマにしようと思っていた。というか他にあまり「がんばってきました!」といえるようなことが無いのだから、どこにそれを出すことになろうとも結局そうなるのだが・・・

実際に書き始めてみると、1000字で説明など出来ないことにすぐに気がついた。もう5年も塾講師として働いてきているのだ。それをたった1000字で収めようなどと思ったのがそもそも間違いだった。5年といえば長い年月だ、これまでの人生が20年ちょっとしかないのだから、割合的に考えただけでも大きい。しかも、大学に入ってからという知能的には最も発達した状態にある時期に長くやっているのだから、影響が小さいはずがない。

文章を書いていて、自分が塾のアルバイトから多くのものを得ていたことに改めて気付かされ、少し嬉しくなった。人間相手の、それも濃いコミュニケーションが必要なアルバイトは、学ぶことが多い。教師を40年勤めた祖母が「子どもの力は圧倒的だ」といっていたが、それは本当だと思う。自分が子どもであったことを忘れ、大切なことを忘れてしまっているときなど、子どもを見ていると原点に戻れる気がする。単純なジェネレーションギャップに驚かされることも多い。

もっと頑張ろう。単なる金稼ぎにならないようにしないと、貴重な時間を割いている意味がない。教えることは教えられること、それを忘れずに明日の社会も楽しくしよう。

何のために勉強するのか。

今、来週の木曜日に発表がある授業の準備を進めている。テーマは都市史。かなり大きなテーマなので、どのようなジャンルを選ぼうとも都市に関するものであり、歴史的なものであれば良いといった懐の深い課題だ。その中で自分が選んだのは、文学と都市の関連性だった。

もともと本を読むのは好きで、特に小説を読むのが好きだった。それも最近の作家よりも明治の文豪を中心として、高校の頃に配布された文学史のテキスト的なものに載っているような作家の作品が好きだ。だからテーマを文学にした。こういった単独の授業の課題というのは、自分の興味関心と課題を直結させて考えることが許されるから良い。

今回は、時間地理学の概念を用いて、夏目漱石の『門』を読み解き、都市の性質を明らかにしたいと考えている。前期三部作のなかでは、『それから』が圧倒的に面白く、『三四郎』はその面白さがよくわからなかった。『門』はその中間くらいだろうか。

しかし、ただ単に趣味として読んだときと、予備知識をもって当たったときの感想は全然違う。新しい視点が付与されることで、作品に対してより深く切り込むことが出来る。今回の発表は、恐らく、失敗するだろう。都市「史」としての性格が弱く、むしろ都市「地理学」の発表になりそうだからだ。それを何とか歴史的な方向へ持っていけるように現在四苦八苦しているわけであるが、これがなかなか難しい。

時間地理学とは、「所定の時間間隔における個人の時間の利用配分を研究する」学問である。要するに、人間がどこで、何に、どのようにして時間を利用しているかを分析するわけだ。人間は一見、自由に時間を使えるようであるが、実はそうではない。現実には様々な制約の下で生活している。それらの制約を明らかにし、時間的・空間的に不可能なことをあぶりだすことで、出来る範囲で最大限快適な環境を作り出すことを目的としている。

などと書くと、たいそうなことに思えるが、実際の自分の生活を考えてみれば、どれほどの制約の下にあることか・・・制度的な制約だけでなく、人格的な制約も強く受ける。要は「生きたいように生きるのは何と難しいことか!」ということだ。それを厳密に定義し、学問としたのだと思う。

我々は本当に多くの制約の下に生きている。例えば、この日記もそうだ。環境的な面からいえば、今この日記は実家のデスクトップPCで書いているので、長々と一心不乱に書いていると、母から「あんた一生懸命何やっているの」と画面を除かれかねない。それを嫌う自分としては、書くときの集中と言う点から思うがままに日記を書くことは出来ないのである。

また、日記の内容もそうだ。これはプライベートモードにしていないので、誰でも閲覧できることになっている。身近な知り合いに見られているのは当然分かっているので、彼らの目を意識しないわけにはいかない。だから、本当は告知したいことがあったとしても、その場として利用することは出来ないのである。プライベートモードにしないのには理由があるので、書く内容にも制限が加えられる。

それから、ブログと言う形式を取る以上、思ったことをその場で書くことが出来ない場合がある。というか多い。何か突発的な閃きがあっても、それが電車内だったりして文字として残すことが出来ないことがある。帰ってからそれを文字に起こそうとしても、それは別物になってしまっている。そのときの勢いがなければ、思ったとおりの文章など書けないのだ。それが理由で、かなりの量を書いておきながら全部消したことはこれまで数えられないほどある。これはネット環境による制約だ。

これがそのまま時間地理学の概念として、通用するとかそういう話ではない。しかし、その構造は似ていると思う。ただ、実際に経験しておきながら、それに気付かないことはたくさんある。学問を通じて、これまで無意識に捉えてきたことを意識的に捉えなおすことで、また新たな発見があるかもしれない。

歴史を学んでいると、現代以外の時代に生きた人間の価値観や感覚と、現代のそれとの差異に驚かされることが多々ある。ジェネレーションギャップが拡大したようなものだと思うが、我々は知らないうちに同時代人として、あるいは同世代人として価値観をある程度共有している。それは時代が既定したものであって、既定されていることに気付くことは少ない。当たり前すぎて、分からないのだ。

そういった当たり前のことが本当に当たり前なのかということを考えることによって、時代や場所の制約から抜け出すことが出来るのではないかと思う。その制約から抜け出すことの出来た人間が、次の時代を築いていくのではないだろうか。時代を築くなどと大げさなことを言わなくとも、何らかの足跡を残すことが出来ると思う。

色々なものの見方を提示してくれるもの、それが学問なのだと思った。学問を勉強することで、それまでの自分になかったものを手にすることが出来る。「学校の勉強なんてやったって無駄だ」などと言う人がいるが、それはもったいない話だと思う。確かに日本の高校までの教育では、勉強の重点は暗記に置かれている節があり、特に歴史などは「何のために勉強するの?」といわれても仕方のない状況にある。そこまでなら「好きな奴だけやっていてくれ」、「文字が書けて四則演算が出来れば生きるのに苦労しない」というのも説得力がある。

ただ、何か新しいものをつかむときには、勉強ほど役に立つものはないと思っている。今回の課題も、学部生時代なら「面倒くさい」と思って、適当にネットと図書館で情報を調べてツギハギするだけだったろう。それでは何の役にも立たない。作業としての「勉強」には価値はない。自分から主体的に問題に取り組んでいけば意味のないものはない、というか意味を自分で見出すことが出来るだろう。だから、自分は勉強する。

飯田橋と早稲田と思い出と現在

最近邦楽を聴くようになった。別に洋楽が好きで邦楽は好きじゃないぜ!とかいうわけではなく、ただ単に自分の場合はランニング中に音楽を聴くので、歌詞が理解できてしまう邦楽よりも、リズムの良い洋楽の方が軽やかに走れるということから自然と邦楽から足が遠のいてしまっただけだ。でも洋楽は意味が分からないから、邦楽の需要だってもちろんある。

大体、聞く歌手は限られていて、それも中学生までCDをレンタルできることを知らなかった自分は両親の音楽の趣味に大きく影響を受けているので、みんなが常識として知っている曲を知らなかったり、特定の歌手については必要以上に曲が揃っていたりする。特に、弟も好きなものだから、槇原敬之の曲は多い。でも、彼の歌の歌詞は好きだけれど声はあまり好きじゃなかったりする。

音楽は思い出と強烈に結びつくようだ。五感で捉えられる中では、嗅覚を刺激するものが一番記憶に結びつきやすいとどこかで聞いたことがあるが、あまりそれを体感したことはない。それなら余程音楽の方が記憶に結びついている。

例えば、スピッツを聞いていると、飯田橋で暮らしていた頃を思い出す。特に『流れ星』『けもの道』『正夢』はそうだ。当時の清水の彼女がスピッツファンで、その影響を受けた清水がスピッツを聞き始め、その影響を受けた自分がCDを借りに行くという連鎖反応が起こった。毎朝毎朝起きもしないくせに携帯のアラームで『正夢』が延々と流れていたときは、嫌いな曲No.1だった。

それから『魔法のコトバ』も飯田橋に結びつく。あの頃は、これまたその彼女が飯田橋ハチクロを持ち込んだ時期で、『魔法のコトバ』は実写映画の主題歌だった。何度も何度もハチクロを読み返したのが懐かしい。やけに印象深いのは、夏の夜に廣瀬と二人で夕飯を済ませ、やけに大量のコーヒーを飲んでいたときだ。あの時も甚平を着てハチクロを読んでいた。最初は文字が多くて読んでて疲れるマンガだと思った。

風呂が無く、狭い部屋でよく2年間も過ごしたものだと思う。風呂がない家に済む経験をまさか積むことになるなんて思っていなかった。シャワーを好きなときに浴びられる幸せを、引っ越したときに強く感じた。しかし、あの頃はとても楽しかった。楽しかった思い出がある。

他には、槇原敬之の曲を聴いていると、一昨年の夏にみんなで行った北海道旅行が思い出される。あの時は初めての体験がたくさんあった。車で長距離旅行に行くのも初めてだったし、船に長く乗ったのも初めてだった。運転していたのは専ら棚田とともちゃんだった。あの時は免許を持っていなかったので、仕方ない。それに車で苦労をかけたのはむしろ、その直後に行った山陰旅行だ。

移動中はほとんど寝ていたように思うけれども、北海道と本州の違いを肌で感じた旅行だった。今まで経験したことのない広さと自然に感動した。それから斜線が広いと速度を出しても全然速く感じないというのもよくわかった。80キロ出していたのに、40キロくらいにしか思えなかった。

それから、エルレガーデンを聴いていると(特に『虹』)、飯田橋のベッドが無かった頃を思い出す。最初は、途中から清水の部屋になった部屋いっぱいに布団を敷いて、みんなで寝ていた。いつだったか忘れたが、イケアに行ってベッドを買い、それぞれの部屋に置くようになってから変わった。溝尻に「昔のほうが良かったね」と言われたのを覚えている。

暇な大学生だったので、大学にもあまり行かず(結局毎年8単位ほど落とすことになる)、ちょくちょく昼寝していた。一度は清水とスピッツハチクロの彼女が寝ている横で自分も寝ていた。陽光のよく入る部屋で、とても気持ちが良かった。リビングでエルレを流して、そのまま眠くなってしまい横になるが、部屋を移動して音楽を止めるのが面倒でそのまま流していた。

アルバイトとネットに膨大な時間を費やし、「あの頃もっとしっかり勉強していれば」とこれまでの人生で何度反省したかわからないフレーズを繰り返すことになったのだが、良い思い出だ。サークルをやって、勉強を頑張って、ピカピカの輝かしい一大学生として過ごすのも悪くないと思うが、ああいった無為の時間を過ごしたことも決して無駄ではなかった。

引っ越してからの思い出があまり無く、時間が過ぎるのを早く感じるようになったのは何故だろう。引越し以降の思い出、家での思い出など、引越し当日に部屋に何も無く、一つ持っていた蛍光灯だけを点け床に毛布を敷いて寝たことと、必要最低限の家具をそろえるために買い物に出かけていたことくらいだ。それ以降の強い思い出はない。

これから先も、早稲田の家で過ごした時間を思い出すことはあまり無いだろう。それは引っ越した時期が人生の転機となる時期だったことも関係があると思う。自分が大学4年の夏、大学院入試を直前に控えた時期、教育実習が終わって燃え尽きていた時期だ。しばらく後には清水の就活が始まる頃だった。

飯田橋の家での思い出が多いのは、ルームシェアという特殊な体験と親元を離れて暮らすという経験が初めてであったこともあるだろうが、それ以上に、みんなで集まって遊んだことが多かったからだと思う。色々な人が代わる代わる遊びに来て、朝までボンバーマンモノポリーをやっていた。大鍋でカレーを作って10人以上で食べたこともあったし、二つの狭い部屋に布団を敷き詰めて8人くらいが所狭しと寝ていたこともあった。

早稲田の家にはそれがない。だから思い出が少ないのだ。しかし、それも仕方のないことだ。同級生の友人の多くは就職し、みんなで集まることなど物理的に不可能に近い。繋がっていた多くの糸がだんだんと細くなり、そして最後には切れていく。そんな物悲しいイメージが思い浮かぶ。それが働くということであり、社会に出るということなのかもしれないが、どうもさみしく思う。もうクリスマスに男10人が集まって、不二家のケーキを奪い合うこともないだろう。

そんなことを、久々に実家に帰って(といっても一週間に一度は帰るのだが)、パソコンに入っている槇原の『GREENDAYS』を聴いていて思った。何も形に残らなかったかもしれないが、高校時代とは違った大学生時代の楽しさがそこには確実に存在していたと思う。次は、院時代の、大学時代とはまた違った良さ、楽しさを見つけていきたい。

自炊のススメ

朝から暗い日記を書いていたけれども、コナミで運動して、勇気をだして体重計に乗ってみたら4〜5キロくらい軽くなってて一気に暗さが吹き飛んだ。清水がダイエットするというから、じゃあ自分もやってみるかということで食事に気をつけ始めたのが3週間くらい前。それまでは特に何もしていなかったから、その期間で痩せたのだと思う。

ダイエットといっても、ただ自炊するようにして、あとはなるべくカロリーをとらないように気をつけただけで、ちゃんと食事はしているから不満は全くない。それどころか財布も大助かりで、この調子で続けていきたいくらいだ。なんといっても自炊は安い。

以前は、昼にいもやで食べて、夜に(しかも深夜1時くらいに)スタ丼で大盛りを食べていたのだから恐ろしい。昼は今でも週に何度か外食するが、夜はほとんど自炊になった。あとはコンビニで無駄な買い物をしない。するとしても、なるべくゼロキロカロリーものを買うようにしている。ゼロキロカロリーものは健康上大丈夫なのだろうかと不安になるが、気にしないことにしよう。

あと5キロ!次のOB戦では「痩せた!」といわせてみたい。ちょっと楽しくなってきた。

閉塞感

このところ妙に強く閉塞感を覚えるのは、先週のOB戦で久々に同級生や先輩、後輩に会い、いろいろな人の近況を聞いたことに原因があるように思う。なぜ友人の近況を聞いたことで閉塞感を覚えるのかはよくわからないが、結局は自分自身が抱えている劣等感のせいなのであろう。他人がどれほど「そんなことに劣等感を感じる必要は無い」と言ったところで、それは自分が本能的にどう考えるかという問題なのだ。

現役合格で大学に入学した中高の同級生は、大半が今は働いている。文系の自分は、自然文系の友達が多かったが、自分の知る限りで文系で大学院に進んだのはたった3人だった。その中の一人が自分である。自分としては、大学院進学はどうしても外せない課程であるので、別に迷うことも無かったし、そのためにある程度は努力したように思う。

ジムに通っていると、清水の知り合いのお客さんから「大学院に進んで勉強なんて偉いね」と言われることがある。大半は好意的な反応を返してくれる。それは勉強することはいつでも正しいことであるからだ。勉強をしていて怒られることなどまずない。むしろ、大学までならば多くの人が勉強などしたくないと思って生きてきたのだろうから、それを頑張るということは特異なことであり、また自分が出来なかったことをしているという感心につながるのかもしれない。もちろん、自分もやらされる勉強は好きではない。

今まで文系の大学院に進むことをバカにしたのは一人しかいない。大学の語学クラスでの同級生だが、彼は「企業に必要とされない」という点から院進学に価値を認めなかった。それに関しては哀れに思う一方で、非常に腹立たしく思った。「企業に必要とされない」人間は不要だとでも言うのか。彼の価値観は企業に必要とされることが頂点にあるのか、それはとても薄っぺらいことなのではないかと思った。自分の価値観に合わない発言であったから、そのとき感情が高ぶっただけで、後に引きずるようなことではない。

今働いている人は、明らかに自分よりも新しい世界に踏み出している。それは望んで踏み出したかどうかはわからないが、少なくとも守ってもらうことの出来る存在である「学生」とは雲泥の差がある。学校の世界との違いから、程度の差こそあれ必ず成長しているはずだ。思うこともたくさんあるに違いない。そしてそれを自分は知らない。

たった2年の差ではある。2年後には自分は社会に出なければならない。博士課程に進むことは今のところ考えていないし、仮に博士まで進んだとしても、先輩方を見ていると働きながらということになるようだ。好きなことを追求していられる学生生活も名残惜しいが、いつまでも親に甘えているわけにも行かない。たった2年間なのだ。

恐らく、2年後にこういった問題で悩むことは無いだろう。もしかしたら2年の差があまりに大きく、その差のことで悩むことになるかもしれないが、それは本質的な違いではない。2年後にしばらく悩んでいたとしても5年10年経てば変わらないはずだ。そこに絶対的な差は存在しない。今だからこそ悩ましいのだ。知る人間・経験のある人間と、全く知らない人間・無経験の人間の差はあまりに大きい。そしていずれ自分も遅ればせながらその世界に飛び込んでいくことを考えると、先に進まれたように思われるのだ。

ここに明らかになるのは、自分の友人観である。友人との関係は常に対等なものでなければならないという風に考えているようだ。それを社会的ステータスだけで測るということはしないが、見えやすいのは人格的な部分よりも社会的な部分だ。特に会っていない友人はそうだ。また、特に懇意にしている人に対しては、他に比べてより対等欲求が強くなる。

周りの人が成長していく中で、自分は「正しい」と言われながらも同じ行為を繰り返している。大学時代に学問に力を入れていなかったという点では、院での生活は全く質の異なるものなのだが、レベルが違うだけで「勉強する」という行為は変わらない。置いていかれてしまう恐怖感と自身の成長を客観的に見ることの出来ない不安感に苛まれる。

この前まで清水が就活していたとき、頑張って欲しいと思う一方で、置いていかれることに対して不安を感じていた。清水のことだから、優秀な企業に採用されるだろう。今回は不況の結果たまたま採用されなかったわけだが、OB訪問先で絶賛されて帰ってきたのを見ても、いずれ採用されることは間違いないと思っている。親しい友人が認められるというのを喜ばしく思うが、では果たして自分はどうなのだろうか。自分自身に対して特別に優秀な部分を見いだすことが出来ない自分は、ここで圧倒的な差をつけられてしまうのではないかと思った。

これまでは「学生」というベールで実力は覆い隠されてきた。大学受験でどのような大学に進むにしろ、勉強などは本気になれば誰もそこまで変わらない。問題は本気で取り組もうとするかどうかだったし、お気楽な学生生活ではその差すら認識する意味が無かった。そのベールがはがされ、これまで見る必要の無かった自分の実力を見て、そして他人の実力を客観的に見ることが出来るようになってくる。それが就活であり、就職であるのだと思う。

もし就活して、自分は全然採用されずに、清水が優秀な企業に採用されたらそのときはどう思うだろうか。これまでは清水に負けないようにと思って頑張ってきた。方法こそ違えど、自分なりに努力はしてきたと思う。一時期は学生のうちに社会を先取りすることに躍起になり、また一時期は教養を身につけようと頑張った。ただそれがどのように役に立ったかはわからない。清水がインストラクターとして活躍するための努力に対抗して、自分も何かを頑張ったということになる。そしてそれに対して企業の視点から判断が加えられることになる。

企業社会で生きていくこと自体や、より高い生活レベルを実現することに対しては、それほど強いこだわりは無い。もちろん給料は多い方が良いし、社会的に認められる地位に就きたいとも思う。ただ、それで自分の望む生き方が制限されてしまうのであれば、それらは惜しむこと無く捨てられると思う。だから、一流企業に入れなかったこと(まだ就活すらしていないが)自体はショックを受けるだろうが、本質的には大きな問題ではない。

友人とは劣等感も優越感も無く付き合いたい。常に対等で、お互いに認め合える関係でありたいというのが友人関係の理想だ。だから、劣等感を抱えてしまったとき、自然な付き合いが出来るかどうかわからない。どこか消極的で遠慮してしまうのではないだろうか。たかが社会的な部分だけで、友人関係に動揺が生じるなど、その関係が単に薄っぺらいものであっただけだと言われるかもしれない。それもそうなのかもしれないと思う。結局、劣等感を感じるということは、自分よりも上の人間を認めることが出来ないだけなのかもしれない。

この問題は、やはり時が解決してくれるものだと思う。社会に出れば、きっとそうそう劣等感を感じることは無いだろう。自分の足で立っているのだから誰に恥じることがあろうか。問題は今なのだ。誰かに支えられている今なのだ。たった2年だから気にしなくて良いと言い聞かせても、心の底からわき上がってくる不安を押しとどめることは出来ない。

社会的な部分で劣等感を感じていることは、そのまま自分の人間観の貧しさを表している。要するに、自分よりも「下」と呼ばれる階層にある人のことを評価しようとしていないのだ。財産だとか地位といった、理性では「下らない」と思えるヒエラルキーに組み込まれてしまっており、それ以外のものの見方が出来ていない。それはまた別の自己嫌悪を生む。このような視点でしか価値を測ることの出来ない人間が果たして教員になることなどできるだろうか。

だからもっといろいろなものを見たいし、経験したい。世の中は目に見えるものだけで構成されているわけではないことを自分で体験し、それを価値観の中に組み込んでいきたい。そのためにはやはり2年では足りない。社会に出るのがこれ以上遅れることは良くないとは思うのだが、このままの状態で社会に出て行っても何が得られるかわからない。その辺は両親とも話し合わなければなるまい。

とりあえず今自分に出来ることは、勉強だけだ。これをやらずして何も始まらない。少しずつではあるが、自分なりの理想に近づいてはいる。ただ、理想が単線でたどり着けるほど単純ではないのが難しいところだ。いろいろな方向からのアプローチが必要だ。そのためにはまず最低限の学問の実力を身につけなければならない。夏休みに入るまでに、詰めなければならないことは詰めておこう。とりあえず、今日も勉強だ。