病める都会人と時計と洋灯

好きな小説家は誰ですかと聞かれると、一人にしぼるのにとても悩んでしまう。とはいえ、自分はお気に入りの小説家の作品を連続して読むのが好きなので、それほど多くの小説家を知っているわけではない。三島、城山、吉村、武者小路、夏目漱石あたりが日本の作家だとお気に入りだ。外国の作品は、一時期頑張って読んでいたのだが、やはり翻訳の壁は厚く、文化的な差異から理解出来ないことも多いのであまり好きではない。それでもトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』はとても好きだ。

今なら、夏目漱石と答える。近代人の苦悩を描いたのが夏目作品だとよく言われるが、執拗な思考的追求とその苦悩には強く惹かれる。前期三部作も面白いが、『行人』は『それから』と並ぶほどに面白い。妻を信じることの出来ない兄の苦悩は、どこまで客観的な証明を行おうとしても晴れることは無い。実際に、妻が絶対に裏切らない人間であるとしても、それを兄が信じない以上はそれほど意味の無いことだ。

ここに近代人の孤独性とその救済の問題が発生する。結局人間は一人で生きていくしかない。しかし、何かにすがらずして生きることは難しい。そこで救済が問題になるのである。夏目漱石がその問題にどのような答えを示したかは覚えていないが、今重要な問題だ。暇ができたら是非読み返したい。

「何でも話せる相手」という存在は果たして実在するだろうか。「話せる」と話す行為に限定しなくとも、心に抱えた問題をすべて預けることの出来る人間が、自分以外に存在するのか、最近疑問に思う。マンガや映画の広告では、恋愛ものでは特にそうであるように、その存在を見つけることが重要なテーマとなる。しかし、自分はそれを一人の人間が担うことは不可能であると思うし、そもそも誰にも話せない苦悩というのも存在するはずだと考える。

まぁ考えがまとまらないから続きませんが、最近下降気味なので似たような話が近日中にであることは間違いないでしょう。ちなみにタイトルは次回のゼミで発表する都市史での参考文献の章題です。時間地理学・・・専門外なのでよくわかりません。困った!この前、精神的に落ち込んでるときほど日記書くよねと言われて、はっとしました。確かにそれは言えている・・・まぁ日記もコミュニケーションの一環なのです。一方的ですが・・・

第三の道

ところで、いっしー。花本先生の答えの「努力する」か「諦める」の他の第三の答えは「現状維持」だと思うんだけど、どう思う?というかたまには院生で飯でも食べにいきませんか。また適当に誘ってマスター会開こうよ。それとも更新状況を見ると、いっしーは相当忙しいのか・・・?

清水の「失敗」と自分の「失敗」

清水とルームシェアをはじめて早3年目。特に大きな問題もなくやってきたように思うけれども、そろそろ人生の転換期ということで、来年の清水の進学(あるいは就職)と自分の進級次第で状況は大きく変わる。これまでいろいろなことを議論して、時々意見が合わなくてイライラしたことも(一昨年の元旦とか)あったが、基本的に清水はがんばってて偉いやつだと思う。

そういうのが身近にいると、当然自分自身と比べないわけにはいかない。勝手に比べてしまう。比べてどうにかなるものでもないし、運動会の徒競走よろしく相手を蹴落としたところで自分に何があるわけではないから、比べるメリットもないのだけれど、これは無意識的なものなのだ。そしていつも不安になる。

清水がいつでも努力して何かを求めてきたのはよくわかっている。そこには必ず努力が存在していた。それはよくわかっている、確かに努力の人だ。しかし、それでも良い面ばかりみてしまう。例えば、ジムのインストラクターとして会社屈指の存在になるまでに、座学から筋トレまで様々な努力をしてきていた。それを自分はうらやましく思っている。がんばれることをではなく、その結果手に入れた栄誉をだ。そしてそれから不安になる。これは明らかにおかしい。

この前の日記で、清水が沈んでいたとき、肝心なときに勝てないことを嘆いていた。確かにその面はある。彼が言うように、野球部は甲子園に行けなかったし、大学受験も第一志望を惜しくも逃した。就活でも大いに期待されながらも、結局院に進学することになった。それは結果だけならば「失敗」となる。

それに対して自分はどうだったか。決して頑張ってこなかったように思う。それは今から思えばそうだということになるかもしれないが、しかし、自分で認めることの出来ない努力にどれほどの価値があろうか。

ただし、大きな失敗もしてこなかった。中学受験でも何とか私立中学に入れたし(今やバリバリの進学校だ)、大学受験でも「第一志望」に入学することが出来た。努力に基づいた大きな成功経験が無い代わりに、大きな失敗経験もないのだ。これまでの最大の失敗経験は、インターンシップでの失敗か中学受験の失敗だろう。中学受験で1日2日と続けて落ちたときは涙が枯れるほど泣いた。インターンをクビになったときは、数日間頭が働かなかった。そして今でも時々思い出す。しかし、それも思えばたいしたことではない。

自分の人生は妥協で成り立ってきたように思う。自分の出来る範囲のことを最大限追求してきた。こういうと大変聞こえが良いが、「そのときの自分に出来ること」をやってきただけで、努力の結果伸びるであろう自分を見据えていたわけではない。大学受験も成功裏に終わったと言っていいと思うが、結局そのときの自分が今の大学に入るのが精一杯だと思って頑張っただけだ。東大に行けるなんて考えすらしなかった。東大に行くことを諦めることで、出来る範囲の「成功」をつかんだ。

清水はそうではない。野球部時代は真剣に甲子園を目指していた。自分は全国に行けるなんて一瞬たりとも考えたことはなかった。そのときは一生懸命サッカーをやっていたつもりだったのだが、現実の壁を知らないうちに自身で作り出していた。どこか諦めていたのだ。今でも少し後悔する。清水の前で「高校時代は部活を頑張っていたよ」などと言えない。彼の努力を実際に見て、思い返せば恥ずかしくなるばかりだ。一生懸命やっているつもりだったのに。

この差はどこから来たのだろうか。どうして自分は努力をしている人間に対して恥ずかし気も無くコンプレックスを感じているのか。

簡単な話だ。自分は決して「成功」をつかもうとしてこなかった。ただただ「失敗」を避けてきただけだからだ。見た限りでは清水はそうではない。彼は「成功」をつかむために「失敗」を恐れずに努力した。「失敗」を避けるための作業と、「成功」をつかむための努力のどちらに価値があるかは、質問にすらならない。

中学受験時代、母親に言われたことは今でも鮮明に覚えている。自分は主体的に中学受験に取り組んでいなかった。小学校の友達と離れるのが何よりも嫌だったから、勉強は半分嫌々でやっていた。残り半分は勉強ができるようになることが楽しかったからやっていた。ある日、全然問題集が解けなかったときに、母親から「あんたは何で勉強してるの?!」と叱責されるように尋ねられた。それに対して自分が答えたのは、「落ちたくないから」。

「落ちたくない」と「受かりたい」では雲泥の差がある。「落ちたくない」というのは単純に失敗を恐れているだけだ。成功をつかむという理想などそこには微塵も存在しない。だから母に怒られた。「そんな気持ちで勉強してたって受かりっこないよ!他の子は『受かりたい』って言うよ!」と。そのときは子どもながらに「その通りだ」と思った。それを今まで生かすことが出来なかったのだ。

今ならよくわかる。なぜ自分が現状に満足することが出来ないのか、仮に満足することが出来なかったとしても、どうして自信を持つことが出来ないのか。それは何もつかんでこなかったからだ、自分の手に何も残っていないからだ。「精神的向上心のないやつはバカだ」とはよく言ったものだと感心していたが、まさか自分がバカだとは思っていなかった。だが、フタを開けてみればまごうことなきバカだったのだ。それも「向上心を持っている」と勘違いしているのだから質が悪い。「精神的向上心」を持っている人間は、たとえ目に見えなくとも何かを持っているのだろう。

だから、これから自分は頑張らなければならない。「成功」に向けて「努力」しなければならない。そうしなければ、これからも何も持たずに生きていくことになる。「自分に出来ること」の範囲を考えずに、「自分のやりたいこと」をやる。その結果として失敗するのであれば、これまでの名ばかりの「成功」よりもはるかに価値があることではないか。自分だけに失敗の責任を負わせられるのは、この時期しか無いかもしれない。これを逃したら、もう後悔することも出来ないかもしれない。だったら、今こそ切り替えるときだ。

清水を見習おう。清水自身は自分の歩んできた道をどう考えているかわからないけれども、「浪人時代に価値があった」と断言しているのは、その成果だと思う。前向きな努力はそれ自体に価値が出てくる。大きなことばかりではなく、小さなことにも失敗を恐れずにチャレンジすることだ。ここ数日の落ち込みは、これからの生き方を大きく変えてくれるかもしれない。災い転じて福と為す。しっかり生きていこう。

もうタイトルなんかどうでも良い!

俺は杓子定規な大人になんかならないぞ!いつまでもその時に一番良い道を選んでやる!見てろよ!今日ほど生に対して前向きになれる日もなかなかないはず。ブルーなのに前向き、不思議とやる気が出てくる。絶対にやってやる!それが何だかわからないけれども、後悔なんかしないように。

偏差値で計れないもの

この前mixiニュースで就職活動の採用側からの視点が紹介されていた。要するに面接官はどこを見ているかという話だったが、一番気になったのは「2・6・2」の割合の話だった。上から順に、上位2割、普通6割、下位2割に別れ、企業は当然ながら上位2割を欲しがる。そして、上位と下位のそれぞれ2割はエントリーシートなどでの文章の書き方で既にわかってしまうという。

エントリーシートを上手く書けるかどうかは別に大したことではない。もちろん就職活動するのであれば大事なのだが、今日の話には関係がない。問題は自分が現在どの位置に居るのかということだ。それが気になる。大学に居る間は、就職活動でもしなければ、自分が今社会的にどの位置にいるのかということが分からない。大学の成績などは出席と少しの勉強で間に合うので(その考え方は間違っていると思うが)、成績は正直宛にならない。成績よりも学歴の方が重視されることもそれを証明しているだろう。

高校までは、学校の成績や学力が自分の位置を測るバロメーターだった。あるいは部活での活躍ぶりか。唯一の公的な物差しが学力であったので、極端な話勉強さえしていれば社会的に問題はなかった。多くの進学校の高校生が大学への入学を志望している以上、学力は必要不可欠であるということもそれを補強している。幸いにして、自分は勉強がある程度好きだったので、特に問題もなく過ごすことが出来たと思う。

社会に出てしまえばあるいはまた単純な世界に戻るかもしれない。要は個人的な業績が良ければ優秀で、そうでなければ優秀でないということになる。仮に社会がそれほどに単純なものであると仮定するならば、一番自分の位置について悩むのは今かもしれない。また、自分の話でいえば、教職における「優秀」とは果たしてどのようなことなのかということを一言で表す、あるいは数字で表すことが出来ないので、そのときも悩むことになると思う。

自分としては、決して謙遜などではなく、自分が現在上位2割に入っているとは思えない。学歴などのわかりやすい点だけで見れば、「優秀」に分類されるかもしれないが(実際、個人を考えるときに学歴ほどあてにならないものはない)、個人の実力・能力は高くない。それはインターンの失敗というたった3日間の出来事からでも分かる。

かといって、下位2割に入るほどに出来ないわけでもないと思う。そもそも自分なりに向上心を持って何かに取り組んでいる人は下位に入るとは思えない。下位2割は能力的な問題もさることながら、向上心の問題があるのではないか。日常生活がルーティンワークになっているからこそ、ダメだと思われるのではないか。そういった意味で、自分はある程度向上心を持っていると思う。自分の将来を見越した努力と言う点では、自分を評価している。親バカならぬ自分バカかもしれないが。

ということは、自分は恐らく普通の6割に分類されているということだ。実際そうだろうと思う。特段に優秀なわけではないが、それほど出来ないわけでもない。そう願いたいというわけで、それを前提に話を進めていく。

中間層6割といっても、真ん中を挟んで6割なのだから、その中にも優秀なのとそうでないのがいることになる。上3割と下3割だ。頑張って上3割に入るしかない。なんか面倒だからここで終わり。日記を書くには論理性なんかよりも勢いの方が大事だな。

現代はいつでも生きづらいし良くない。

歴史を学んでいると、農民というのは、いや百姓というのは表に出てくることはあまり無い。少なくとも個人としての百姓が教科書に取り上げられるなどということはあり得ない。中央での激烈な権力闘争や、支配制度の確立が教科書的な歴史のメインである。そういった「正史」ばかり学んでいると、百姓は戦争などに巻き込まれない限り平穏無事な生活を送っていたのだろうと勝手に想像してしまう。年貢も辛かったかもしれないし、医学も発達していなかったのだから死の脅威が今よりも遥かに強かっただろう。しかし、毎日に圧迫感は無かったはずだ。

などという妄想の根拠はどこにも無い。江戸時代の百姓だって、いろいろなことで悩んでいたに違いないのだ。一昨年大学で取った日本女性史では江戸時代におけるジェンダーというものを学んだが、それまで江戸時代に性同一性障害の人が存在することに考えを及ばせたことは無かった。しつこいようだが、その時代その時代に辛い出来事というのはそれぞれの人間にとって存在したに違いない。

それは現代でも言えることだ。就職活動(辞書登録の仕方がわからないので略さない)すら経験していない自分が辛いというのはおかしな話だが、周りが就職していく中で院に、それも将来を狭める性質を持つ(と思われる)文系の院に進んだという不安感は他に覚えのある人は少ないだろう。とにかく、それは今は大事な問題ではない。圧迫感を強く感じることが多々ある。

それで農村などでの自給自足の牧歌的生活に魂を先行させることがあるのだが、考えてみれば、そんな気楽な生活などあるはずが無いのだ。もちろん、巨大な富を保持しているのなら話は別かもしれないが、趣味ではなく生活の手段として農村生活を考えるならばそんな甘いものではないはずだ。生きるための手段として何かを捉えたら、それらはすべてある程度の「辛さ」を内包しているのだ。

趣味として生きる以外に、辛さを感じずに生きることは出来ないのではないか。そういう意味では、今学問の世界にある程度深く入り込むことが出来たというのは幸福だ。好きなことをやることが、正しいのだから。そのスタンスを仕事に持ち込めれば問題は無い。仕事が趣味、例えばサッカー選手などはサッカーが好きだからそれで稼いでいるのだ。実績が出せなければ首であるという点では胃に穴が空きそうになるだろうから、そんな単純な話ではないのだが・・・

そう考えれば、誰もが辛いのだ。いつの時代でも辛いのだ。どこどこは苦労が無くて良いのだろうなとか、〜時代はみんな楽しく過ごしてたんだろうな・・・などという考えは後世の人間の妄想だ。いつでも生きるために努力が必要な人間は辛かったはずだ。すべての人間が自分の生きる目的を見いだせるはずも無いのだから、半数以上は苦しんできたのだと思う。あるいはその苦しみを感じないようにしてきたのだと思う。だから、「今は辛い時代だ」というのはもうやめよう。そんなことを嘆く暇があったら、自分のしたいことを探した方が良い。