閉塞感

このところ妙に強く閉塞感を覚えるのは、先週のOB戦で久々に同級生や先輩、後輩に会い、いろいろな人の近況を聞いたことに原因があるように思う。なぜ友人の近況を聞いたことで閉塞感を覚えるのかはよくわからないが、結局は自分自身が抱えている劣等感のせいなのであろう。他人がどれほど「そんなことに劣等感を感じる必要は無い」と言ったところで、それは自分が本能的にどう考えるかという問題なのだ。

現役合格で大学に入学した中高の同級生は、大半が今は働いている。文系の自分は、自然文系の友達が多かったが、自分の知る限りで文系で大学院に進んだのはたった3人だった。その中の一人が自分である。自分としては、大学院進学はどうしても外せない課程であるので、別に迷うことも無かったし、そのためにある程度は努力したように思う。

ジムに通っていると、清水の知り合いのお客さんから「大学院に進んで勉強なんて偉いね」と言われることがある。大半は好意的な反応を返してくれる。それは勉強することはいつでも正しいことであるからだ。勉強をしていて怒られることなどまずない。むしろ、大学までならば多くの人が勉強などしたくないと思って生きてきたのだろうから、それを頑張るということは特異なことであり、また自分が出来なかったことをしているという感心につながるのかもしれない。もちろん、自分もやらされる勉強は好きではない。

今まで文系の大学院に進むことをバカにしたのは一人しかいない。大学の語学クラスでの同級生だが、彼は「企業に必要とされない」という点から院進学に価値を認めなかった。それに関しては哀れに思う一方で、非常に腹立たしく思った。「企業に必要とされない」人間は不要だとでも言うのか。彼の価値観は企業に必要とされることが頂点にあるのか、それはとても薄っぺらいことなのではないかと思った。自分の価値観に合わない発言であったから、そのとき感情が高ぶっただけで、後に引きずるようなことではない。

今働いている人は、明らかに自分よりも新しい世界に踏み出している。それは望んで踏み出したかどうかはわからないが、少なくとも守ってもらうことの出来る存在である「学生」とは雲泥の差がある。学校の世界との違いから、程度の差こそあれ必ず成長しているはずだ。思うこともたくさんあるに違いない。そしてそれを自分は知らない。

たった2年の差ではある。2年後には自分は社会に出なければならない。博士課程に進むことは今のところ考えていないし、仮に博士まで進んだとしても、先輩方を見ていると働きながらということになるようだ。好きなことを追求していられる学生生活も名残惜しいが、いつまでも親に甘えているわけにも行かない。たった2年間なのだ。

恐らく、2年後にこういった問題で悩むことは無いだろう。もしかしたら2年の差があまりに大きく、その差のことで悩むことになるかもしれないが、それは本質的な違いではない。2年後にしばらく悩んでいたとしても5年10年経てば変わらないはずだ。そこに絶対的な差は存在しない。今だからこそ悩ましいのだ。知る人間・経験のある人間と、全く知らない人間・無経験の人間の差はあまりに大きい。そしていずれ自分も遅ればせながらその世界に飛び込んでいくことを考えると、先に進まれたように思われるのだ。

ここに明らかになるのは、自分の友人観である。友人との関係は常に対等なものでなければならないという風に考えているようだ。それを社会的ステータスだけで測るということはしないが、見えやすいのは人格的な部分よりも社会的な部分だ。特に会っていない友人はそうだ。また、特に懇意にしている人に対しては、他に比べてより対等欲求が強くなる。

周りの人が成長していく中で、自分は「正しい」と言われながらも同じ行為を繰り返している。大学時代に学問に力を入れていなかったという点では、院での生活は全く質の異なるものなのだが、レベルが違うだけで「勉強する」という行為は変わらない。置いていかれてしまう恐怖感と自身の成長を客観的に見ることの出来ない不安感に苛まれる。

この前まで清水が就活していたとき、頑張って欲しいと思う一方で、置いていかれることに対して不安を感じていた。清水のことだから、優秀な企業に採用されるだろう。今回は不況の結果たまたま採用されなかったわけだが、OB訪問先で絶賛されて帰ってきたのを見ても、いずれ採用されることは間違いないと思っている。親しい友人が認められるというのを喜ばしく思うが、では果たして自分はどうなのだろうか。自分自身に対して特別に優秀な部分を見いだすことが出来ない自分は、ここで圧倒的な差をつけられてしまうのではないかと思った。

これまでは「学生」というベールで実力は覆い隠されてきた。大学受験でどのような大学に進むにしろ、勉強などは本気になれば誰もそこまで変わらない。問題は本気で取り組もうとするかどうかだったし、お気楽な学生生活ではその差すら認識する意味が無かった。そのベールがはがされ、これまで見る必要の無かった自分の実力を見て、そして他人の実力を客観的に見ることが出来るようになってくる。それが就活であり、就職であるのだと思う。

もし就活して、自分は全然採用されずに、清水が優秀な企業に採用されたらそのときはどう思うだろうか。これまでは清水に負けないようにと思って頑張ってきた。方法こそ違えど、自分なりに努力はしてきたと思う。一時期は学生のうちに社会を先取りすることに躍起になり、また一時期は教養を身につけようと頑張った。ただそれがどのように役に立ったかはわからない。清水がインストラクターとして活躍するための努力に対抗して、自分も何かを頑張ったということになる。そしてそれに対して企業の視点から判断が加えられることになる。

企業社会で生きていくこと自体や、より高い生活レベルを実現することに対しては、それほど強いこだわりは無い。もちろん給料は多い方が良いし、社会的に認められる地位に就きたいとも思う。ただ、それで自分の望む生き方が制限されてしまうのであれば、それらは惜しむこと無く捨てられると思う。だから、一流企業に入れなかったこと(まだ就活すらしていないが)自体はショックを受けるだろうが、本質的には大きな問題ではない。

友人とは劣等感も優越感も無く付き合いたい。常に対等で、お互いに認め合える関係でありたいというのが友人関係の理想だ。だから、劣等感を抱えてしまったとき、自然な付き合いが出来るかどうかわからない。どこか消極的で遠慮してしまうのではないだろうか。たかが社会的な部分だけで、友人関係に動揺が生じるなど、その関係が単に薄っぺらいものであっただけだと言われるかもしれない。それもそうなのかもしれないと思う。結局、劣等感を感じるということは、自分よりも上の人間を認めることが出来ないだけなのかもしれない。

この問題は、やはり時が解決してくれるものだと思う。社会に出れば、きっとそうそう劣等感を感じることは無いだろう。自分の足で立っているのだから誰に恥じることがあろうか。問題は今なのだ。誰かに支えられている今なのだ。たった2年だから気にしなくて良いと言い聞かせても、心の底からわき上がってくる不安を押しとどめることは出来ない。

社会的な部分で劣等感を感じていることは、そのまま自分の人間観の貧しさを表している。要するに、自分よりも「下」と呼ばれる階層にある人のことを評価しようとしていないのだ。財産だとか地位といった、理性では「下らない」と思えるヒエラルキーに組み込まれてしまっており、それ以外のものの見方が出来ていない。それはまた別の自己嫌悪を生む。このような視点でしか価値を測ることの出来ない人間が果たして教員になることなどできるだろうか。

だからもっといろいろなものを見たいし、経験したい。世の中は目に見えるものだけで構成されているわけではないことを自分で体験し、それを価値観の中に組み込んでいきたい。そのためにはやはり2年では足りない。社会に出るのがこれ以上遅れることは良くないとは思うのだが、このままの状態で社会に出て行っても何が得られるかわからない。その辺は両親とも話し合わなければなるまい。

とりあえず今自分に出来ることは、勉強だけだ。これをやらずして何も始まらない。少しずつではあるが、自分なりの理想に近づいてはいる。ただ、理想が単線でたどり着けるほど単純ではないのが難しいところだ。いろいろな方向からのアプローチが必要だ。そのためにはまず最低限の学問の実力を身につけなければならない。夏休みに入るまでに、詰めなければならないことは詰めておこう。とりあえず、今日も勉強だ。