飯田橋と早稲田と思い出と現在

最近邦楽を聴くようになった。別に洋楽が好きで邦楽は好きじゃないぜ!とかいうわけではなく、ただ単に自分の場合はランニング中に音楽を聴くので、歌詞が理解できてしまう邦楽よりも、リズムの良い洋楽の方が軽やかに走れるということから自然と邦楽から足が遠のいてしまっただけだ。でも洋楽は意味が分からないから、邦楽の需要だってもちろんある。

大体、聞く歌手は限られていて、それも中学生までCDをレンタルできることを知らなかった自分は両親の音楽の趣味に大きく影響を受けているので、みんなが常識として知っている曲を知らなかったり、特定の歌手については必要以上に曲が揃っていたりする。特に、弟も好きなものだから、槇原敬之の曲は多い。でも、彼の歌の歌詞は好きだけれど声はあまり好きじゃなかったりする。

音楽は思い出と強烈に結びつくようだ。五感で捉えられる中では、嗅覚を刺激するものが一番記憶に結びつきやすいとどこかで聞いたことがあるが、あまりそれを体感したことはない。それなら余程音楽の方が記憶に結びついている。

例えば、スピッツを聞いていると、飯田橋で暮らしていた頃を思い出す。特に『流れ星』『けもの道』『正夢』はそうだ。当時の清水の彼女がスピッツファンで、その影響を受けた清水がスピッツを聞き始め、その影響を受けた自分がCDを借りに行くという連鎖反応が起こった。毎朝毎朝起きもしないくせに携帯のアラームで『正夢』が延々と流れていたときは、嫌いな曲No.1だった。

それから『魔法のコトバ』も飯田橋に結びつく。あの頃は、これまたその彼女が飯田橋ハチクロを持ち込んだ時期で、『魔法のコトバ』は実写映画の主題歌だった。何度も何度もハチクロを読み返したのが懐かしい。やけに印象深いのは、夏の夜に廣瀬と二人で夕飯を済ませ、やけに大量のコーヒーを飲んでいたときだ。あの時も甚平を着てハチクロを読んでいた。最初は文字が多くて読んでて疲れるマンガだと思った。

風呂が無く、狭い部屋でよく2年間も過ごしたものだと思う。風呂がない家に済む経験をまさか積むことになるなんて思っていなかった。シャワーを好きなときに浴びられる幸せを、引っ越したときに強く感じた。しかし、あの頃はとても楽しかった。楽しかった思い出がある。

他には、槇原敬之の曲を聴いていると、一昨年の夏にみんなで行った北海道旅行が思い出される。あの時は初めての体験がたくさんあった。車で長距離旅行に行くのも初めてだったし、船に長く乗ったのも初めてだった。運転していたのは専ら棚田とともちゃんだった。あの時は免許を持っていなかったので、仕方ない。それに車で苦労をかけたのはむしろ、その直後に行った山陰旅行だ。

移動中はほとんど寝ていたように思うけれども、北海道と本州の違いを肌で感じた旅行だった。今まで経験したことのない広さと自然に感動した。それから斜線が広いと速度を出しても全然速く感じないというのもよくわかった。80キロ出していたのに、40キロくらいにしか思えなかった。

それから、エルレガーデンを聴いていると(特に『虹』)、飯田橋のベッドが無かった頃を思い出す。最初は、途中から清水の部屋になった部屋いっぱいに布団を敷いて、みんなで寝ていた。いつだったか忘れたが、イケアに行ってベッドを買い、それぞれの部屋に置くようになってから変わった。溝尻に「昔のほうが良かったね」と言われたのを覚えている。

暇な大学生だったので、大学にもあまり行かず(結局毎年8単位ほど落とすことになる)、ちょくちょく昼寝していた。一度は清水とスピッツハチクロの彼女が寝ている横で自分も寝ていた。陽光のよく入る部屋で、とても気持ちが良かった。リビングでエルレを流して、そのまま眠くなってしまい横になるが、部屋を移動して音楽を止めるのが面倒でそのまま流していた。

アルバイトとネットに膨大な時間を費やし、「あの頃もっとしっかり勉強していれば」とこれまでの人生で何度反省したかわからないフレーズを繰り返すことになったのだが、良い思い出だ。サークルをやって、勉強を頑張って、ピカピカの輝かしい一大学生として過ごすのも悪くないと思うが、ああいった無為の時間を過ごしたことも決して無駄ではなかった。

引っ越してからの思い出があまり無く、時間が過ぎるのを早く感じるようになったのは何故だろう。引越し以降の思い出、家での思い出など、引越し当日に部屋に何も無く、一つ持っていた蛍光灯だけを点け床に毛布を敷いて寝たことと、必要最低限の家具をそろえるために買い物に出かけていたことくらいだ。それ以降の強い思い出はない。

これから先も、早稲田の家で過ごした時間を思い出すことはあまり無いだろう。それは引っ越した時期が人生の転機となる時期だったことも関係があると思う。自分が大学4年の夏、大学院入試を直前に控えた時期、教育実習が終わって燃え尽きていた時期だ。しばらく後には清水の就活が始まる頃だった。

飯田橋の家での思い出が多いのは、ルームシェアという特殊な体験と親元を離れて暮らすという経験が初めてであったこともあるだろうが、それ以上に、みんなで集まって遊んだことが多かったからだと思う。色々な人が代わる代わる遊びに来て、朝までボンバーマンモノポリーをやっていた。大鍋でカレーを作って10人以上で食べたこともあったし、二つの狭い部屋に布団を敷き詰めて8人くらいが所狭しと寝ていたこともあった。

早稲田の家にはそれがない。だから思い出が少ないのだ。しかし、それも仕方のないことだ。同級生の友人の多くは就職し、みんなで集まることなど物理的に不可能に近い。繋がっていた多くの糸がだんだんと細くなり、そして最後には切れていく。そんな物悲しいイメージが思い浮かぶ。それが働くということであり、社会に出るということなのかもしれないが、どうもさみしく思う。もうクリスマスに男10人が集まって、不二家のケーキを奪い合うこともないだろう。

そんなことを、久々に実家に帰って(といっても一週間に一度は帰るのだが)、パソコンに入っている槇原の『GREENDAYS』を聴いていて思った。何も形に残らなかったかもしれないが、高校時代とは違った大学生時代の楽しさがそこには確実に存在していたと思う。次は、院時代の、大学時代とはまた違った良さ、楽しさを見つけていきたい。