何のために勉強するのか。

今、来週の木曜日に発表がある授業の準備を進めている。テーマは都市史。かなり大きなテーマなので、どのようなジャンルを選ぼうとも都市に関するものであり、歴史的なものであれば良いといった懐の深い課題だ。その中で自分が選んだのは、文学と都市の関連性だった。

もともと本を読むのは好きで、特に小説を読むのが好きだった。それも最近の作家よりも明治の文豪を中心として、高校の頃に配布された文学史のテキスト的なものに載っているような作家の作品が好きだ。だからテーマを文学にした。こういった単独の授業の課題というのは、自分の興味関心と課題を直結させて考えることが許されるから良い。

今回は、時間地理学の概念を用いて、夏目漱石の『門』を読み解き、都市の性質を明らかにしたいと考えている。前期三部作のなかでは、『それから』が圧倒的に面白く、『三四郎』はその面白さがよくわからなかった。『門』はその中間くらいだろうか。

しかし、ただ単に趣味として読んだときと、予備知識をもって当たったときの感想は全然違う。新しい視点が付与されることで、作品に対してより深く切り込むことが出来る。今回の発表は、恐らく、失敗するだろう。都市「史」としての性格が弱く、むしろ都市「地理学」の発表になりそうだからだ。それを何とか歴史的な方向へ持っていけるように現在四苦八苦しているわけであるが、これがなかなか難しい。

時間地理学とは、「所定の時間間隔における個人の時間の利用配分を研究する」学問である。要するに、人間がどこで、何に、どのようにして時間を利用しているかを分析するわけだ。人間は一見、自由に時間を使えるようであるが、実はそうではない。現実には様々な制約の下で生活している。それらの制約を明らかにし、時間的・空間的に不可能なことをあぶりだすことで、出来る範囲で最大限快適な環境を作り出すことを目的としている。

などと書くと、たいそうなことに思えるが、実際の自分の生活を考えてみれば、どれほどの制約の下にあることか・・・制度的な制約だけでなく、人格的な制約も強く受ける。要は「生きたいように生きるのは何と難しいことか!」ということだ。それを厳密に定義し、学問としたのだと思う。

我々は本当に多くの制約の下に生きている。例えば、この日記もそうだ。環境的な面からいえば、今この日記は実家のデスクトップPCで書いているので、長々と一心不乱に書いていると、母から「あんた一生懸命何やっているの」と画面を除かれかねない。それを嫌う自分としては、書くときの集中と言う点から思うがままに日記を書くことは出来ないのである。

また、日記の内容もそうだ。これはプライベートモードにしていないので、誰でも閲覧できることになっている。身近な知り合いに見られているのは当然分かっているので、彼らの目を意識しないわけにはいかない。だから、本当は告知したいことがあったとしても、その場として利用することは出来ないのである。プライベートモードにしないのには理由があるので、書く内容にも制限が加えられる。

それから、ブログと言う形式を取る以上、思ったことをその場で書くことが出来ない場合がある。というか多い。何か突発的な閃きがあっても、それが電車内だったりして文字として残すことが出来ないことがある。帰ってからそれを文字に起こそうとしても、それは別物になってしまっている。そのときの勢いがなければ、思ったとおりの文章など書けないのだ。それが理由で、かなりの量を書いておきながら全部消したことはこれまで数えられないほどある。これはネット環境による制約だ。

これがそのまま時間地理学の概念として、通用するとかそういう話ではない。しかし、その構造は似ていると思う。ただ、実際に経験しておきながら、それに気付かないことはたくさんある。学問を通じて、これまで無意識に捉えてきたことを意識的に捉えなおすことで、また新たな発見があるかもしれない。

歴史を学んでいると、現代以外の時代に生きた人間の価値観や感覚と、現代のそれとの差異に驚かされることが多々ある。ジェネレーションギャップが拡大したようなものだと思うが、我々は知らないうちに同時代人として、あるいは同世代人として価値観をある程度共有している。それは時代が既定したものであって、既定されていることに気付くことは少ない。当たり前すぎて、分からないのだ。

そういった当たり前のことが本当に当たり前なのかということを考えることによって、時代や場所の制約から抜け出すことが出来るのではないかと思う。その制約から抜け出すことの出来た人間が、次の時代を築いていくのではないだろうか。時代を築くなどと大げさなことを言わなくとも、何らかの足跡を残すことが出来ると思う。

色々なものの見方を提示してくれるもの、それが学問なのだと思った。学問を勉強することで、それまでの自分になかったものを手にすることが出来る。「学校の勉強なんてやったって無駄だ」などと言う人がいるが、それはもったいない話だと思う。確かに日本の高校までの教育では、勉強の重点は暗記に置かれている節があり、特に歴史などは「何のために勉強するの?」といわれても仕方のない状況にある。そこまでなら「好きな奴だけやっていてくれ」、「文字が書けて四則演算が出来れば生きるのに苦労しない」というのも説得力がある。

ただ、何か新しいものをつかむときには、勉強ほど役に立つものはないと思っている。今回の課題も、学部生時代なら「面倒くさい」と思って、適当にネットと図書館で情報を調べてツギハギするだけだったろう。それでは何の役にも立たない。作業としての「勉強」には価値はない。自分から主体的に問題に取り組んでいけば意味のないものはない、というか意味を自分で見出すことが出来るだろう。だから、自分は勉強する。