10-12冊目、1月は目標達成できず。。。

結局1月は最後の最後で戸惑ってしまって、12冊の目標が達成できなかった。別に気にすることではないが、読んでみたい本がたくさんあるわりに時間が全然ない(といっても社会人と比べたら贅沢の極みなのだろうが)のが口惜しいものだ。とりあえず作品紹介と感想文を読んだ順番に。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

飢餓同盟 (新潮文庫)

飢餓同盟 (新潮文庫)

全て安部公房の作品だ。そして『砂の女』以外は生協におススメ的に置いてあった作品を理由なく選んだだけであって、少しギャンブル性が高い。全体を通していうならば、安部公房の比喩表現は筆舌に尽くしがたいほどに見事であった。それほど多くの作者を知っているわけではないが、これほど比喩表現に感激したのは、三島由紀夫以来であるかもしれない。内容が面白い小説はたくさんある。時として比喩のない素朴な表現を選ぶべきものもあるし、それはそれで良さがある。しかし、逆もまた然りで、比喩は比喩の良さがあるのだ。

特に、『砂の女』の「教師は川底の石のようなものだ」という表現には同意せざるを得なかった。生徒が川の流れとして自分の上を前へと進んでいくのを、教師はただ単に眺めていることしか出来ない。自分がその流れに乗って、進んでいくことはないのだ。それは教師の宿命であろう。自分がどれほど手塩にかけて育てたつもりの生徒でも、卒業して自分の手元を離れていくばかり。ハチクロでも「教師は学校の亡霊のようなものだ」というセリフがあったけれども、そういうことなのだろう。

砂の女』は確かに見事としか言いようがなかった。終わり方に物足りなさを感じる人もいることと思うが、『砂の女』のような終わり方はすごく好みだ。志賀直哉の『暗夜行路』のあっさりとした終わり方に近いものがあると思う。途中の性の話も興味深かった。時代が進んだことで、主人公の嘆く(というか嫌う)性の回数券かはさらに進んだと思うのだが、現代でもそのまま通用するものだと思う。性の過度の理想化を痛快に批判しているのが楽しい。

箱男』はよくわからなかった。コンセプト自体は非常に面白いものであることは間違いないのだが、書き方が難しく混乱を呼ぶ。固有名詞がその性質上ひどく少なく、感情移入することが難しいためだろうか。『箱男』の良さが、社会からの離脱であることを考えれば、名前を捨てることも当然ではないかとも思えるのだが、研究するつもりで読まなければ、理解するのは難しいだろう。実験的な小説であるとしているが、まさにそのとおりだと思った。

『飢餓同盟』はあまり感じ入るところはなかったといえる。登場人物の花井の事実以上のエリート意識や町に巣食う悪しき地域主義の描写は滑稽に感じられるが、それ以上のものではなかった。世の中を皮肉った本なのだろうか。それならそれで、皮肉っぽさは十分に認められる。しかしどうも受け入れがたい。『箱男』は良く理解できなかったが、創造的な何かを感じることが出来た。しかし、『飢餓同盟』にはそれがなかった。その点で、『箱男』以上に不満が残る。

安部公房の文章は、常に曇って暑くも寒くもないが、湿度は結構高いような気分の悪くなる環境、あるいは古い木造の家の狭く薄暗い一室の中でたたずんでいるような様子を創造させるものがある。まさに『砂の女』の家の中にいるような気分だ。そういう薄暗さを感じさせる小説は読んでいて面白い、まるで人間の見たくない本質が表れているように思える。さわやか青春系の文章も結構だが、こういった見たくない醜い一面を描いた作品は、深みが出てくる。そういった本を読んでいると、気分が鬱々としてくるのだが、それはそれで、また楽しいものなのである。