格差社会

格差社会が盛んに叫ばれているが、結果としての格差というのはある程度はやむを得ないもの。勉強した人が成績が上がってしていない人が下がるのは当然であるように、頑張って働いた人が良い生活をして頑張らない人が悪い生活に耐えなければならないのはまた当然であろう。問題は格差の再生産であって、格差が存在すること事態ではないのではないかと思う。

例えば、いわゆる勝ち組になるためには、一流大学を出て一流企業に就職するのが最も簡単な道である。簡単というのは、個人の才能に大きく依拠することなく成功にたどり着けるという意味であって、決して努力が必要ではないという意味ではない。私は金が幸せの尺度であるとは考えないが、金がないことには幸せになりにくいのは認めなければならない。では、一流大学に入学するには何が必要なのか。

一流大学に入学しやすくするには、一流高校・一流中学に入学するのが近道である。一流校に入学するには高度な勉強をしなければならない。大抵それらの勉強は参考書と個人の努力だけでは成り立たないものであり、そこには塾・予備校の力を必要とする。通っている学校のレベルと志望校のレベルが一致する、または上回るとは限らないのだ。平均を超えた学校を志す場合、通学校の教育レベルでは追いつかないことが多々ある。実際、我が高校から東大に入学したいとして、高校内だけの勉強で東大に入学できるほどの勉強が出来るかといわれれば恐らく不可能であっただろう。

そういう人たちは、塾に通うほかに手段がない。しかし、塾は金のかかるものである。金がなければ塾で教育を受けることは出来ない。塾で教育を受けることが出来なければ、一流校に入学する門は狭くなる。すると、貧しい人々には最も簡単に起き上がる道に進むことが難しくなるのである。これは実に単純な話だ。

親が貧しいために塾に通うことが出来ない。だから子どもも「勝ち組」になれずに苦労する。そしてその子どもも・・・という無限ループ。これが単純化した格差の再生産だろう。親の状況に応じて子どもの将来が大幅に制限されてしまうことなど本来はあってはならないはずだ。この解決こそ求められるのであって、決して結果の平等を目指すべきではない。長時間働いて高所得の人から所得税を多く徴収すべきだというのは、少し的を外していないだろうか。

格差の再生産を防ぐには、教育の機会均等を完全に実施することが求められる。例えば、学校や教育のレベルを落とさずして、高等教育の無料化を実施して欲しい。国は教育費を切り詰めようとしているようだが、格差是正のための予算があるのなら、教育費に回して欲しいものだ。経済的な出身階層によらずに、本人の努力で学歴を勝ち取れるようにしてほしい。そのためには公立校のレベル底上げが必要だろう。金のかからない公立校で高い教育水準を維持できれば、やる気のある生徒は一流校に入学できることになる。

勉強に必要なものは本人の努力であることは言うまでもない。環境に嘆いているばかりの人間は、努力を放棄しているといえる。しかし、最低限の環境が整備されることなく努力だけで勝ち進んでいくことはそれはそれで不可能ではある。日本国民全体の学力が下がってきていると政府や世間は嘆いているが、そういった全体にばかり目を向けるのではなく、個人の努力がどうしたら報われるのか、あるいは個人の努力をどうしたら助けることが出来るのかということに注意すべきではないか。

「学校の成績が全てじゃない」とか「テストでは人間の力なんて図れないのさ」などと理想論を述べて、妄想に逃げるのも結構ではあるが、現実社会はそうではない。良い学校に通っている人間が優遇され、そうでない人間は余程力がない限りは冷遇される。ならば、理想を語る一方で現実に対策を講じるべきである。

上に立つ人間は、誰よりも現実的でなければならない。上に立つ人間が理想論を語りだし、時代の流れに流されるようになってしまえば、その社会は崩壊へとどんどん近付いていく。「第三善を戦場に送れ」という言葉があるという。第一善、つまりbestなものを戦場に送ろうとしたら実現できない、第二善=Betterを送ろうとしても間に合わない、第三善=Goodならば十分に時間も量も確保できるという意味らしい。軍隊ほど現実的な組織はないと思うが、それほどに教育の整備は現実的であるべきだ。もちろん、軍隊とは何も関係のない範囲でだ。

と、まだ働いてもいない大学生が偉そうなことを述べてみたわけだが、私は果たして教育のために何が出来るだろうか。教師になりたいという気持ちは変わらないし、教育に一身をささげる覚悟もあるけれども、現場教師が教育全体に対して出来ることなどたかが知れている。教育は個人のものだといってきたのと矛盾するようだが、制度は全体のものだ。私が何が出来るのか、ということもしっかりと見極めていかなければ、ただの空理空論になってしまう。これは「社会科が人生の何に役に立つのか」という疑問の解決と共に、教育者を志すものとして考えておかなければならない問題だ。しかし、恐らく一生涯をかけてようやく、そのヒントが見えてくるようなものなのではないかと思う。

教育というのは、80年やそこらで答えが出るほどに単純なものではないからだ。