清水の「失敗」と自分の「失敗」

清水とルームシェアをはじめて早3年目。特に大きな問題もなくやってきたように思うけれども、そろそろ人生の転換期ということで、来年の清水の進学(あるいは就職)と自分の進級次第で状況は大きく変わる。これまでいろいろなことを議論して、時々意見が合わなくてイライラしたことも(一昨年の元旦とか)あったが、基本的に清水はがんばってて偉いやつだと思う。

そういうのが身近にいると、当然自分自身と比べないわけにはいかない。勝手に比べてしまう。比べてどうにかなるものでもないし、運動会の徒競走よろしく相手を蹴落としたところで自分に何があるわけではないから、比べるメリットもないのだけれど、これは無意識的なものなのだ。そしていつも不安になる。

清水がいつでも努力して何かを求めてきたのはよくわかっている。そこには必ず努力が存在していた。それはよくわかっている、確かに努力の人だ。しかし、それでも良い面ばかりみてしまう。例えば、ジムのインストラクターとして会社屈指の存在になるまでに、座学から筋トレまで様々な努力をしてきていた。それを自分はうらやましく思っている。がんばれることをではなく、その結果手に入れた栄誉をだ。そしてそれから不安になる。これは明らかにおかしい。

この前の日記で、清水が沈んでいたとき、肝心なときに勝てないことを嘆いていた。確かにその面はある。彼が言うように、野球部は甲子園に行けなかったし、大学受験も第一志望を惜しくも逃した。就活でも大いに期待されながらも、結局院に進学することになった。それは結果だけならば「失敗」となる。

それに対して自分はどうだったか。決して頑張ってこなかったように思う。それは今から思えばそうだということになるかもしれないが、しかし、自分で認めることの出来ない努力にどれほどの価値があろうか。

ただし、大きな失敗もしてこなかった。中学受験でも何とか私立中学に入れたし(今やバリバリの進学校だ)、大学受験でも「第一志望」に入学することが出来た。努力に基づいた大きな成功経験が無い代わりに、大きな失敗経験もないのだ。これまでの最大の失敗経験は、インターンシップでの失敗か中学受験の失敗だろう。中学受験で1日2日と続けて落ちたときは涙が枯れるほど泣いた。インターンをクビになったときは、数日間頭が働かなかった。そして今でも時々思い出す。しかし、それも思えばたいしたことではない。

自分の人生は妥協で成り立ってきたように思う。自分の出来る範囲のことを最大限追求してきた。こういうと大変聞こえが良いが、「そのときの自分に出来ること」をやってきただけで、努力の結果伸びるであろう自分を見据えていたわけではない。大学受験も成功裏に終わったと言っていいと思うが、結局そのときの自分が今の大学に入るのが精一杯だと思って頑張っただけだ。東大に行けるなんて考えすらしなかった。東大に行くことを諦めることで、出来る範囲の「成功」をつかんだ。

清水はそうではない。野球部時代は真剣に甲子園を目指していた。自分は全国に行けるなんて一瞬たりとも考えたことはなかった。そのときは一生懸命サッカーをやっていたつもりだったのだが、現実の壁を知らないうちに自身で作り出していた。どこか諦めていたのだ。今でも少し後悔する。清水の前で「高校時代は部活を頑張っていたよ」などと言えない。彼の努力を実際に見て、思い返せば恥ずかしくなるばかりだ。一生懸命やっているつもりだったのに。

この差はどこから来たのだろうか。どうして自分は努力をしている人間に対して恥ずかし気も無くコンプレックスを感じているのか。

簡単な話だ。自分は決して「成功」をつかもうとしてこなかった。ただただ「失敗」を避けてきただけだからだ。見た限りでは清水はそうではない。彼は「成功」をつかむために「失敗」を恐れずに努力した。「失敗」を避けるための作業と、「成功」をつかむための努力のどちらに価値があるかは、質問にすらならない。

中学受験時代、母親に言われたことは今でも鮮明に覚えている。自分は主体的に中学受験に取り組んでいなかった。小学校の友達と離れるのが何よりも嫌だったから、勉強は半分嫌々でやっていた。残り半分は勉強ができるようになることが楽しかったからやっていた。ある日、全然問題集が解けなかったときに、母親から「あんたは何で勉強してるの?!」と叱責されるように尋ねられた。それに対して自分が答えたのは、「落ちたくないから」。

「落ちたくない」と「受かりたい」では雲泥の差がある。「落ちたくない」というのは単純に失敗を恐れているだけだ。成功をつかむという理想などそこには微塵も存在しない。だから母に怒られた。「そんな気持ちで勉強してたって受かりっこないよ!他の子は『受かりたい』って言うよ!」と。そのときは子どもながらに「その通りだ」と思った。それを今まで生かすことが出来なかったのだ。

今ならよくわかる。なぜ自分が現状に満足することが出来ないのか、仮に満足することが出来なかったとしても、どうして自信を持つことが出来ないのか。それは何もつかんでこなかったからだ、自分の手に何も残っていないからだ。「精神的向上心のないやつはバカだ」とはよく言ったものだと感心していたが、まさか自分がバカだとは思っていなかった。だが、フタを開けてみればまごうことなきバカだったのだ。それも「向上心を持っている」と勘違いしているのだから質が悪い。「精神的向上心」を持っている人間は、たとえ目に見えなくとも何かを持っているのだろう。

だから、これから自分は頑張らなければならない。「成功」に向けて「努力」しなければならない。そうしなければ、これからも何も持たずに生きていくことになる。「自分に出来ること」の範囲を考えずに、「自分のやりたいこと」をやる。その結果として失敗するのであれば、これまでの名ばかりの「成功」よりもはるかに価値があることではないか。自分だけに失敗の責任を負わせられるのは、この時期しか無いかもしれない。これを逃したら、もう後悔することも出来ないかもしれない。だったら、今こそ切り替えるときだ。

清水を見習おう。清水自身は自分の歩んできた道をどう考えているかわからないけれども、「浪人時代に価値があった」と断言しているのは、その成果だと思う。前向きな努力はそれ自体に価値が出てくる。大きなことばかりではなく、小さなことにも失敗を恐れずにチャレンジすることだ。ここ数日の落ち込みは、これからの生き方を大きく変えてくれるかもしれない。災い転じて福と為す。しっかり生きていこう。