現代はいつでも生きづらいし良くない。

歴史を学んでいると、農民というのは、いや百姓というのは表に出てくることはあまり無い。少なくとも個人としての百姓が教科書に取り上げられるなどということはあり得ない。中央での激烈な権力闘争や、支配制度の確立が教科書的な歴史のメインである。そういった「正史」ばかり学んでいると、百姓は戦争などに巻き込まれない限り平穏無事な生活を送っていたのだろうと勝手に想像してしまう。年貢も辛かったかもしれないし、医学も発達していなかったのだから死の脅威が今よりも遥かに強かっただろう。しかし、毎日に圧迫感は無かったはずだ。

などという妄想の根拠はどこにも無い。江戸時代の百姓だって、いろいろなことで悩んでいたに違いないのだ。一昨年大学で取った日本女性史では江戸時代におけるジェンダーというものを学んだが、それまで江戸時代に性同一性障害の人が存在することに考えを及ばせたことは無かった。しつこいようだが、その時代その時代に辛い出来事というのはそれぞれの人間にとって存在したに違いない。

それは現代でも言えることだ。就職活動(辞書登録の仕方がわからないので略さない)すら経験していない自分が辛いというのはおかしな話だが、周りが就職していく中で院に、それも将来を狭める性質を持つ(と思われる)文系の院に進んだという不安感は他に覚えのある人は少ないだろう。とにかく、それは今は大事な問題ではない。圧迫感を強く感じることが多々ある。

それで農村などでの自給自足の牧歌的生活に魂を先行させることがあるのだが、考えてみれば、そんな気楽な生活などあるはずが無いのだ。もちろん、巨大な富を保持しているのなら話は別かもしれないが、趣味ではなく生活の手段として農村生活を考えるならばそんな甘いものではないはずだ。生きるための手段として何かを捉えたら、それらはすべてある程度の「辛さ」を内包しているのだ。

趣味として生きる以外に、辛さを感じずに生きることは出来ないのではないか。そういう意味では、今学問の世界にある程度深く入り込むことが出来たというのは幸福だ。好きなことをやることが、正しいのだから。そのスタンスを仕事に持ち込めれば問題は無い。仕事が趣味、例えばサッカー選手などはサッカーが好きだからそれで稼いでいるのだ。実績が出せなければ首であるという点では胃に穴が空きそうになるだろうから、そんな単純な話ではないのだが・・・

そう考えれば、誰もが辛いのだ。いつの時代でも辛いのだ。どこどこは苦労が無くて良いのだろうなとか、〜時代はみんな楽しく過ごしてたんだろうな・・・などという考えは後世の人間の妄想だ。いつでも生きるために努力が必要な人間は辛かったはずだ。すべての人間が自分の生きる目的を見いだせるはずも無いのだから、半数以上は苦しんできたのだと思う。あるいはその苦しみを感じないようにしてきたのだと思う。だから、「今は辛い時代だ」というのはもうやめよう。そんなことを嘆く暇があったら、自分のしたいことを探した方が良い。