共感型と憧れ型

最近村上春樹の『ノルウェイの森』を読み直している。高校2年生くらいのときに初めて読んで、大学に入ってから1度読み直した。それで、3度目の読み直しをしているわけだ。この本は(まだ上巻なので何とも言えないけれども)つかみ所が無く、フワフワとした足場に立って書かれている気がする。何か強い信念だとか芯を持たないことこそがその魅力だと思うのだが、本来こういった本は好きじゃなかった。

これまで好んで読んできたのは、どんな形であれ、強い信念のようなものを持った人物が主人公の小説だった。城山三郎はわかりやすくそういった形を取る。代表作『落日燃ゆ』は広田弘毅の信念とその行動を感動的に描き出している。それが史実かどうかは別の話だが。三島由紀夫もパターンは違えど、人工的な愛を育むという、自然を信念の下に屈服させるような不自然な力強さがある。夏目漱石の作品の登場人物には、近代人特有の悩みを抱えながらも、必死にそれぞれの人生を生きる強さが見られると思う。

信念を持つ人間の行動は、それがたとえ迷いを抱える人間であったとしても、行動がぶれない。行動の上では試行錯誤しつつも、その根本は強い。そういったその人物の魅力に強く惹かれてきた。自分もそうなりたいと思って、どこか憧れをもって読んできたと思う。

確か『彼岸過迄』だったと思うが、主人公の兄は、自分が観念の人間であって、実践の人間ではないことを嘆いていた。涙を流して友人にそのことを告白するのだが、そこにすら必死に生きる、実践の人間になろうと懸命に努力する姿が見られるように感じた。自分の妻を信じることが出来ない彼はこの上も無く不幸なのだろうが、それを克服するために、見かけは惨めであっても闘いを挑んでいる。

あるいは、三島由紀夫の作品は、自殺で終わるものが多いが、その自殺も何かから逃れて自殺するのではなく、逆に何かを手に入れるために自殺するというパターンがある。『盗賊』の自殺はその類だったはずだ。『愛の渇き』では逆に愛を手にするために愛する相手を殺害するに至る。その結末はグロテスクであり、悲惨としか言いようが無いものであるのだが、彼らは後悔していなかったに違いない。

しかし、ノルウェイの森はそうではない。ふらりふらりと根無し草のように浮き世を流れる若者を描いている。主人公はある種の諦観を持っているように思うが、彼は多くの人を尊敬することが出来、それを受け入れることが出来る。誰よりも強い人間ではない。かといって強い信念があるわけでもない。何かを得ながら進んで行くのだが、それは計画的なものではなく、その場その場で得られるものを身につけて行くような形だ。

だから、読んでいてどこか不安になる。テーマが陰鬱なものであるという以上に、確固とした自己を持たない、そしてそれを強烈に求めようとしない登場人物に不安感を覚えるのだろう。そしてその不安感こそが、この作品の魅力なのだと思う。「こういう風に生きよう」というわかりやすい構図を示してくれないことで、登場人物との一体感を得られるのではないか。

もちろん合わない部分もある。恐らく、自分はノルウェイの森の主人公と上手くやって行くことは出来ないだろう。ああいった流れて行くような生き方、まさに一人での放浪の旅を彼が好む部分に現れているが、その生き方に憧れを覚えながらも、自分はもっと必死になって生きていきたいんだとも思う。

この本を読むと、自分の生き方を考え直したくなる。それはこれまでの生き方が間違っていたのではないかという不安に襲われることでもあるので、気軽に出来るものではない。生き方の決定が人生のすべてを決定するわけではないが、それなくして生きるのは難しい。理想を持たずにその日その日を過ごすには、人間はあまりに弱く造られている。もしかしたら自分だけかもしれないが。

もう「どう生きるか」などといっている年齢ではないのかもしれない。しかし、それを考えることを止めてしまった瞬間に、人間としての進歩が止まってしまう気がする。それはそれで恐ろしいことだ。現実に対応して生きることは不可欠なことではあるが、それは全てではない。そういった点を、人生のターニングポイントとなるであろう今年は、よく考えて行きたいと思う。