神が居ないのは大変だ。

日本人は無宗教者が多い。とはいえ、最近創○とか幸○の科学とか、新興宗教は元気があるようだ。我が家の近くにも、いつの間にか施設が出来ていて、そこを見ていたら清水に「そっち見んな」と注意された。実際、どれくらい宗教を信じている人がいるのだろうか。

宗教を信じるということには、色々な理由があると思うが、一番の理由は死の恐怖から逃れることだと思う。誰もが死が恐ろしいと感じるのだから、その恐怖を減らしたいと思うのは当たり前だ。しかし、現代に生きる人間にとって宗教とはそれほどに単純なものではないだろう。

まず、日本に生きている以上、死は隣にない。親戚などの死もなかなかない。これは喜ぶべきことであり、日本に生まれたことを感謝すべき点であると思う。では、日常で死を意識する必要の無い日本人にとって宗教は果たして必要なのか。

「死」を肉体的な死に限定すれば、それほど必要ではないだろう。ただし、人間は肉体さえ元気であれば生きていけるわけではない。年間三万人もの人が自殺するのだから、精神的な死というものの存在を考える必要がある。精神的に存在を否定されたり、その恐怖に脅かされることで、自ら死を選択することもあるのだろう。先日も、理科大で自殺騒動があったようで、少し騒いでいたという。

精神的な死の恐怖、それが宗教を必要とする大きな理由だと思う。そして、日本で新興宗教が大きな力を持つのは、そういった人々に対して、既存の歴史ある宗教に比べて新興宗教の方が余程広く門を開いているからだ。門を開いているという言い方は少し違うかもしれないが、少なくとも積極的にそういった人々を受け入れる姿勢は取っている。精神的に追い詰められた人が、いきなり東大寺に向かうだろうか。そして東大寺はそれを受け入れるだろうか。

しかし、最近自分は、そういった精神的な死からの救済という意味以外でも、宗教は必要とされるのではないかと考えるようになった。正確に言えば、宗教が必要とされるというよりも、神=絶対者の存在が人間が日常生活を善の存在として生きる上で必要なのではないかと思うのである。

人間は神になることは出来ない。ただ神の前にひれ伏すのみである。色々な宗教によってその教義は違うし、そもそも一神教多神教では価値観が全然違うので、一口にまとめることは出来ないが、自分が今イメージしているのはキリスト教的な絶対者としての神を持つ一神教である。これは昨年の一般教養の宗教学でキリスト教に触れた影響があるかもしれない。

作家の遠藤周作は、神を持たない日本人の苦悩をテーマとして小説を書いた。代表作に『海と毒薬』があるが、神を持たない日本人の罪悪感とはどのようなものであるのかを克明に描き、ずいぶんと考えさせられた。ただ単純に社会的罰を怖れるために、残虐な行為を実行に移さない。社会的な罰以外に怖れるものがないのが日本人であると。そういわれると、罰する存在としての神など恐れたことはない気がする。「バチが当たるよ」と怒られても、怒っているその本人以外は怖くない。

神は、人間を自らの姿に似せて造られた。だから、神は我々にとっての手本なのである。我々人間は神を見本としてその存在に近付いていくことが出来る。ただし、決して神になることは出来ない。確か宗教学でこのようなことを習った。

人間は間違いを起こす。それは犯罪という意味ではなく、日常生活の些細なことで道に背いた行いをする。例えば、電車の優先席で老人に席を譲らなかったとしても法的に罰せられることは無いが、人としては正しい行為ではない。結局は、それに対して何も感じないか、ちょっとした罪悪感を感じるだけである。そしてまた同じことを繰り返す。

罪悪感を感じながらも、それを繰り返してしまうのはなぜか。ちなみに、今回は罪悪感すら感じない人のことは考察の範囲外としているが、それは神がどうとかいう以前の問題であろう。罪悪感を感じる人が同じような繰り返しをしてしまう理由の一つは、日本人が神を持たないことであるのではないか。

神は、言うまでも無く自分ではない。自分の中に存在しながらも、自分自身とは違う。つまり他者である。自分の中に絶対者としての他者が存在しているかどうかが鍵になると思う。それはどういうことか。

神を持たない人間の中の、自分自身の行動を判断する裁判官は、自分以外には存在しない。細かく分ければ、現実の自分が被告となり、理想の自分が裁判官となっているのだろうが、結局は同じ自分である。自分が自分を裁くときに、厳しい判決を出せる人などそうそういない。普通は、情状酌量か執行猶予で終わりである。実刑判決などほとんど出ない。

神を自身の中に持つ人間はどうかといえば、被告は自分自身だが、それを裁くのは他者としての神である。神が自分自身の理想であるとしても、自分なのか他者なのかというのでは雲泥の差がある。自身の中の絶対的な、つまり決して過ちを犯すことのない他者としての神が、現実の自分を見たときに、そこに手心を加えることなどありえない。手心を加えてしまったら、それはもはや神ではない。

道徳としての宗教、というのはこの点にあるのではないかと思う。自分の中に他者が存在するからこそ、自分を厳しく律することが出来る。そういう意味で、日常生活において神は必要な存在であると思う。死後の世界だとか、現世での名誉だとかは別に大した問題ではない。それは日本において必要となる本来の宗教の姿ではない。律法を単純に、何も考えずに遵守しているだけというのは、考えて律法に背く人間よりもはるかに神を冒涜しているといえはしないか。

無宗教の国、日本における「神」とは果たして何なのか。この点をもっと深く考えていきたい。宗教や哲学といった人間が生きる道、あるいは人間のあるべき姿を追求するものは面白い。宗教を持つ国の国民が皆、日本人よりも優れているとは思わない。むしろ、宗教を持っているからこそその思考を止めてしまっていることもあるだろう。自爆テロなどはその最たる例だ。

自分がこれからどのようにして、どのような立場で生きていくのか。それを考える必要は大いにあるだろう。