卒業生代表の言葉

昨日の学位授与式で、卒業生代表の挨拶があった。どうして彼女が選ばれたのかは全く知る由もないが、賢明な顔つきをしているし(人は見た目が9割)、きっと優秀な学生なのだろうと思った。すると、やはり賢い人だったので、見た目は重要だということが良くわかった。

さて、彼女が述べた言葉の中で印象的だったのは、「理想が人を傷つける」というものだ。「理想」という言葉は常にプラスのイメージがついてまわる。「理想を実現した!」というセリフをうらやましいと思わない人はいないだろう。「理想を高く持て!」というのは学校でも塾でもおなじみの言葉である。「理想的」というのは、その人にとって完璧を意味する。それほどまでに「好ましい」言葉なのだ。

では、「理想が人を傷つける」というのはどういうことだろうか。それは決して難しいことではなく、むしろ自分たちの身近に転がっているものなのだ。我々は、少なくとも自分は、理想を高く掲げることで人を傷つけたこともあるし、逆に傷つけられたこともある。自己嫌悪に陥ることも多々ある。これほどまでに日常的な現象を述べただけなのに、なぜ印象的な言葉となったのかといえば、その現象を見事に言葉に変換したからだ。

一つの理想を追い求めることは、自ずと自らの視野を狭めることにつながる。就職活動でもそうだ。職業に貴賎はないなどというのは建前で、実際は社会的に認められた企業に就職することが「好ましい」とされる。大学受験の偏差値偏重と同じことだ。一流企業や一流大学へ入ることを「理想」とすれば、それ「以下」の進路を選んだ(あるいは選ばざるを得なかった)人を、自らの価値観や人生から排除することになる。

かといって理想を持つことが悪いわけではない。問題は、一つの理想しか抱かないことだ。一つの理想をどこまでも崇拝し、それに向かって邁進することがどれほど危険なことなのかは歴史が証明している。その場合は、理想と言うよりは共有された価値観とでもいうべきだろうが。

アジア・太平洋戦争中、あるいはその直前の日本の狂態は、「お国のため」という絶対的な価値観が生み出したものだ。そうではないものを、一つ一つを個別の判断にかけることなしに徹底的に具体的に排除していった。天皇機関説事件をはじめとする言論統制の数々、あるいは五・一五事件二・二六事件などのクーデター。そして戦時体制への国民の協力姿勢。他国民への蔑視。これらが多くの悲劇を生んだ。

少し大げさになった。問題なのは個人の方だ。ただ、個人が集まって社会や国家を形成している以上、全くの無関係ともいえないだろう。とにかく、一つの理想・価値観に固執することは危険なことである。

2月頃だっただろうか。エリートからホームレスへと一気に転落していった人の取材を集めた本を読んだ。そこで気になったのが、「ホームレスは誰の目にも映っていない」ということだった。その人自身も、一流企業で働いていたエリート時代にはホームレスを見ていなかった。目には映っているのだが、それを「人間」として認識していなかったのである。考えてみれば、そうかもしれない。薄汚い格好をして異臭を放つホームレスが駅などに居たときに、我々は何を思うだろうか。恐らく、大半の人が「うわ」とか「邪魔だ」とか、自分のことしか考えないはずだ。

それは仕方のないことだと思う。進んで彼らを助けようとしないことは、善ではないが悪でもない。しかし、そこでホームレスに対して「人外」の烙印を押していないだろうか。一時期、青年によるホームレス殺人が多発し、社会問題化したが、彼らも結局ホームレスを人間として認めていなかったから殺人へと突き進んでいったのだろう。

「派遣切り」の問題も本質的には近いものがあるように思える。「派遣切り」にあった派遣労働者が、「家もない」「貯金もない」でNPOなどに助けを求め、NPO職員が政府や自治体に対して救助を求めたとき、すんなりと受け入れられただろうか。自分は複雑であった。正論を言えば「本当に貯金できなかったのか」とたずねたくなる。ギリギリまで切り詰めれば、貯金くらいは出来たかもしれない。そういう立場にあることを認識せずに、浪費を繰り返したならば、救助を求める資格はない。そういう「正論」が存在することは不思議ではない。

しかし、その「正論」にも結局は「派遣切り」の人たちを人間と認めていない、少なくとも自分と同格だと認めていない部分があるのではないか。人間は、自分に関わりのある部分しか認識することは出来ない。我が家の愛犬は可愛いことこの上ないが、保健所で毎年殺処分されるたくさんの野犬のことには心が痛まない。アフリカで子どもが数秒ごとに亡くなっていても、自主的に500円寄付することすら心理的に難しい。

見えない部分に対して冷たいことは、誰かを直接傷つけるわけではない。そういった意味で、冷たい態度は悪ではない。しかし、ふと注意を欠けば、その態度は見える部分に対しても適用されてしまうかもしれないと心配だ。

その心配は二重の意味がある。一つは相手を傷つけてしまうかもしれないということ。そしてもう一つは自分の目が曇るのではないかということ。目が曇ってしまえば、判断に誤りが出る。それは自分にとって大いにマイナスである。事実をはっきりと正確に見極めることは、どのような人生を歩むにしても必要な能力だ。

例えば、大卒至上主義者が居たとしよう。彼は先程一例として挙げた「一流大学+一流企業=理想的人生」という理想の持ち主だ。その彼がケンカをした。どちらが悪いかといえば彼が悪いといえるかもしれない。こういう状況のときに、判断を誤らせる可能性がある。ケンカの相手が大卒で無かったならばどうなるか。「大学も出てないくせに」これが言い訳になってしまう。そして大卒者でないことを理由として、相手を自分の人生から排除してしまう。

あくまで極端な例であるが、似たようなことが自分にも起こらないとも限らない。理想を持つことは結構なことではあるが、そのせいで視野が狭まる可能性があること、その危険性は常に認識する必要がある。そうでない限り、他人との対峙が平等になることは無い。全ての人間関係が上下関係になってしまう。それはごめんだ。