昨日の続き

授業の展開力、これは良い授業をする上で必要不可欠な要素であるが、それを今の状態で圧倒的高さに至らせることはほぼ不可能に近い。学力が勉強するかどうかで高まるかどうかが決まるのに対し、こればかりはどれほど塾で経験を積もうとも、一定以上に至ることはないと考える。

そもそも、学校と塾とではスタンスが違いすぎるのだ。塾の目的は単純明快、「成績向上」これだけである。学校はそうではない、何度か書いたが教育基本法にあるように「人格の完成を目指す」という目標がある。生徒側の対応も違ってくる。塾に来る生徒は自己責任で着ているのだ。そして、勉強しなければ成績は上がらないし、授業を聞かなければ理解することすら難しい。だから、基本的に授業に対しては真面目な姿勢で臨む。それがたとえダメな授業だったとしてもだ。学校はそうではない、教師の努力で生徒の心を勉強にひきつけ続けさせなければならない。

さらに、今自分が働いている塾は少人数制を基本としているので、30人単位の授業とはやり方が全く違う。教育実習で塾の経験が役に立ったのは、臨機応変に説明が出来るということと、黒板の使い方に慣れているということだけだった。授業展開の基本から勉強することになった。だからこそ良い経験ではあった。

そんなわけで、今の自分の状況を劇的に変えでもしない限りは、授業展開力をつけることはままならないのである。

他に、トップクラスの社会科教師に必要な要素は何かと考えたとき、一番迷うのが社会的経験である。ストレートで(院も含めて)教職に就いた場合、学校組織から一歩も外に出ることなく、教師になることになる。社会というか会社というかで迷うが、多くの大人が会社で働いていることを考えれば、やはり「社会的」常識というのは存在するのだろう。それを知らずして立派な存在になりうるだろうか。

特に、学部卒なら22歳、院卒なら24歳でそれぞれ教師になる。担任を持つこともあるかもしれない。そうなれば、生徒は皆子どもであるが、生徒の親は−もし生徒が末っ子だったりしたら−自分の親と同じくらいの年齢であることすら十分にありえるのである。もちろん学校は子どものためにあるので、それに比べれば親の問題はメインではないが、こちらが学校生活を送っていく上では重要な問題ではある。

社会的経験も足らず、というか全く無く、そして人生における人間的経験も不足している状況にあるのである。若いときはそれでも仕方が無いのかもしれないが、それを頼りにして良いものかどうか。生徒にとっては教師が若者だろうが年寄りだろうが関係が無いのだ。あくまで生徒視点でモノを捉えるべきなのだから、若いことは言い訳にはならない。これは塾の保護者会で実際に学んだことだ。保護者会は結構怖い。

だったら、院卒で一旦就職してから教職に転じるというのはどうか。実際にこの目で、この身体で社会を経験してから教師になれば良い。生徒の進路指導上もその方が好ましいことは間違いない。進路指導というのは、進学指導とはまた違うのだ。大学に送り出すだけが学校の目標ではない。大学の先を見据えた進路指導をする必要がある。そのときに、ほんの数年間でも社会で働いたことがあるというのは、貴重な経験として生かされるだろう。

ただし、難題が二つある。一つは、学力の維持の問題である。一般就職をしたとして、そこで3年〜5年働いたとしよう。院卒から3年後であれば27歳、5年後ならば29歳だ。そこで教師に転じたとして、24歳の学識を保ち続けることが出来るだろうか。特に、自分の場合は経済や政治などといった現代でも直ちに通用するような学問が専門なのではなく、日本史という学校でこそ需要のある学問が専門なのだ。これを企業で100%近く生かして働くというのは難しい。

となれば、学力は時間の経過とともに低下していくことだろう。そうすると、今度は教師に転じた後が難しくなってくる。高度な知識を保ち続けること、これは普通に生きていては到底出来ることではない。

続く・・・