価値観の揺らぎ

人生の最終的な目標は、自我の完全なる確立だと思う。どんなうらやましい状況と比べられても、自分はこの生活・人生に満足しているといえるだけの自己肯定感、それを求めているのだ。そして、自分は現在比較的それに近い状況にあると思っていた。

例えば、今自分は金銭的に厳しい状況にある。それは毎月同じことであるのだが(服を最後に買ったのがいつだかわからない…)、別にそれに関して後悔もしていない。もちろん、無駄遣いもたくさんあるのだが、それに関してもほとんど後悔していない。合理主義に徹すれば、月にそれなりの額を貯金することも可能なのだろうが、人間は合理主義で割り切れるほどに単純な存在ではないのだ。その非合理主義的な部分にこそ、自己肯定感の基礎があると考えている。

教職に進むこと、それは小学生からの夢だったので、今でもそうしようと考えている。これまで諦めてきた夢もいくつかあるが、教職がベストだと思っている。でも、宇宙飛行士になる努力くらいはすべきだった。しかし、教職の難点は、決して経済的に豊かな職業ではないということだ。私立トップ校になるとどうなのかわからないが、高額所得者とはなりえないであろう。

その点に関しては、若干の不満を残しつつも、自分を納得させることが出来ていた。金で受け取れる以上のものがある、それは今でも感じているし、教育実習のときの感動を忘れることは出来ない。一流の車に乗り、一等地に住み、豪華な食生活を送ることが出来なくとも、別に構わない。そう思っていた。そして、この点に関してはそれなりに自信があったのだ。

しかし、清水が就活を始めて、古賀から話を聞いてきたときに、正直に言って少しその自信が揺らいだ。古賀の話に出てくるのは、超一流の天才や宝くじなど問題にならないほどの億万長者だった。自分がそんな位置にいまさら立つことが出来ないことくらいはわかっているが、うらやましいと感じる心を禁じえなかった。一流の外資企業、そこで破格の給料をもらってありえない生活を送る・・・それはどうなのだろうか。

教職は、狭い世界の仕事だ。生徒の将来に関わることを考えれば、時間を超えた広い世界に繋がっているが、現実に見えるのは学校という限定された世界だけ。それに比べて、商社や金融機関は文字通り世界を股にかける活躍だ。この現実世界の広がりの差も、自分に不安感を与える。もっと広い世界を見たい、そう思う気持ちは今でも根強くあるのだ。

これまでそういった世界的なステージに立つ努力をしてこなかった自分には、そういうことを主張する資格すら認められるべきではないが、それは重要なことではない。大切なのは、この疑問を抱いたまま教職の世界に入って良いのかということだ。

城山三郎の小説のセリフに「何も広く生きる必要なんてない、深く生きさえすれば良いんだ」とあった。これを見たとき、確かにそうだと思った。今でもそう思う。しかし、それと世界を見たい気持ちは両立するはずだ。ただ、現実にその二つを両立させている人はごくわずかしかいない。