甘えと克服

塾でバイトをはじめてからもう4年も経つ。前期に1年生の授業に出席したら年齢の違いに驚いたくらいだから、きっと少しずつ自分も変わっているのだろう。思い返すのも恥ずかしいくらいに4年前の自分は愚かしかった。誰にでもある時期さと自分を励まして、問題から目をそらすことにしよう。

4年間の塾での経験で、自分は何か進化しただろうか。当然、黒板を上手く使えるようになったし、ある程度授業のペースもつかんできた。上級といえるほどではないが、会社全体の時間講師の中ではそれなりの授業を提供できていると思う。少なくとも社会に関しては。

そこまでたどり着くのは大変だった。一年目は生徒との距離感で悩んだ。理不尽なことをいう親に対して憤りを感じたこともあったし、真面目に授業を受けない生徒を怒鳴りつけたこともあった。試行錯誤をして、何とか基礎を固めてようやくその上に自分の授業を築くことが出来るようになった。

しかし、そこにバラックを建てて安心していなかっただろうか。風雨をしのげるからといって、まともな家を建てようとしただろうか。その点についてははなはだ自信がない。教育実習で大いに自分の実力不足を反省し、大学院は文学系に進むことを決意したのもつかの間、油断していないか。

そう問えば、大いに油断していたというべきだろう。テキストの改善に真面目に取り組んでこなかった自分が今更ながら憎らしい。もっと真面目に必要なデータを体系的にまとめていれば、もっと良い授業が提供できたはずだ。

言い訳をしようと思えばいくらでも出来る。例えば、今年の中3は人数が多く勉強熱心であるにもかかわらず、理社の開講は二学期からだった。学校で公民が二学期いっぱいかかることを考えれば、春のうちに1コマ90分で組むべきことは自明の理である。それを半分の時間でやれといわれたのだから、難しいのは当たり前だ。

覚えて欲しいデータはいくらでもある。出来れば自分の脳のデータをそのまま移植したい。自分の中にはある程度体系的にデータが整っているが、生徒は決してそうではない。地理と歴史、歴史と公民、公民と地理を上手くリンクさせなければ、膨大な知識の無駄が発生してしまう。

授業中は単なる暗記ではなく、その連環に重点を置いて指導してきたつもりだ。ただ、授業が問題演習形式であったため、それが効果的に伝わっていたかは定かではない。予め、一冊のデータ集として、必要なデータを絞っておいたら・・・そう考えると後悔にきりがない。

また、「アルバイトだから・・・」といってその身分に甘えていたかもしれない。会社の言うとおりに動くだけだと、自分の活動の余地を狭める行為を正当化し、本当はサボっていたいだけの自分を良しとした。一生懸命授業をやっても成績が上がらないのは、勉強しないから。それは本当だと思うが、自分が成績を上げようと真剣に対策を講じてこなかったことも大きな原因であろう。

自分は将来教職に就きたいからこそ、塾で働いていたのだ。金になるからではない。その目的意識を「面倒だ」の一言で忘却の彼方に置き去りにし、単に生活の手段と化してしまった。バイトを生活の手段と捉えてしまえば、最大限努力しないことこそが合理的だ。無意識にそう考えていたのだ。

この頃、そのことを強く意識するようになった。単に年数を重ねていただけで、ふんぞり返った自分を見た。次からは、つまり新年の冬期講習からは、心機一転初めからやり直すつもりで授業に臨みたい。そうしなければ、これまで莫大な時間を投資してきたアルバイトの時間の半分以上が水泡に帰してしまう。

何のためにそれをやるのか。それを忘れた人間は結果を残すことは出来ない。目的も目標も、流れる時間の中で次第に移ろっていくものだ。そんな中で、いつまでも目的や目標を維持し続ける人でありたい。

薄っぺらい中3の社会のテキストを見て、その決意を新たにした。