良くないこと

ここのところ、イライラすることが少ない気がする。最も近いところでイライラしたのは、清水が「今日は早く帰るから飯食わずに待ってろよ」と言ったので、言いつけ通り夕飯を食べずに待っていたのに、帰ってきたのは午前4時過ぎというふざけた時間だったときだろうか。あれは健康に悪いくらいにイライラしていた。しかし、これは正当なイライラなので、たいしたことではないし、むしろ正常であるともいえる。

良くないのは、ちょっとしたことにイライラすることだ。例えば、電車の中で通話するサラリーマン、ゴミを道端に捨てる女、大学の講義が始まったのに帽子を取らないバカ学生・・・自分にそれほど関係ないところで、大袈裟に言えば反社会的・反道徳的行為をする人間に対してイライラするのは、健康に良くない気がする。もともとそれほど気が長くない、というか性格の良くない自分にとっては、これは持病とも言うべき特質である。

これに対処するには、世間から一歩引くのが効果的だ。主観的に行為を捉えるのではなく、客観的に、まるで防犯カメラが自分とその周りを映しているかのように考えるのである。この前、電車に乗ろうとしたら、後ろから来た中年男性に横入りされて少し感情的になった。これを「抜かされた自分」と「ぬけぬけと横入りした中年男性」という構図で捉えたら、イライラする。しかし、自分の感情を排除して「(良い意味で)順番など気にしない学生」と「必死に席を確保しようとする余裕の無い中年男性」と捉えると、笑ってしまいたくなる。

何をそんなことに必死になっているのか、もっと必死になるべきところがあるだろう。とシニカルに世の中を捉えるのである。すると、何もかもが面白く思えてきて、そんなことにイライラしていた自分すらも冷笑の対象となるのだ。決して寛大なわけではなく、むしろ寛大さなど微塵も存在しない驕り高ぶった立場から何もかもを許せるようになってしまうのである。

これは実に良くない傾向だ。必死になっている人間を嘲笑しかねない。そのスイッチをしっかりと管理できるのかが問題だ。自然に生きていくことの出来ない人間は人工的に自然を作り出す努力をしなければならないが、人工的自然を捨て去り、人工的に人工物を作り出すとすれば、自然な自然すら笑うかもしれない。丁度、国語の文章に出てくる自然を征服しようとする愚かしい西洋人のように。自然は人間が捉えられるほど小さいものではないのにだ。

シニカルに怒りを抑えるくらいならば、素直に怒っていたほうが余程自然で人間的だ。シニカルな性格に憧れるのは中学生までで良い。笑うことは必要だが、冷笑や嘲笑はよろしくない。これからは、素直にイライラするようにしたいと思う。