読書の意味

読書は良いものだ(ここでは良いことというべきか)。それは間違いない。はっきりとした根拠を示す必要はないだろう。そう自分が思っているだけなのだから。

人は普遍を求めがちだが、このところそうしないように努めている。自分も例に漏れず、真理だとか普遍といったものを探している。しかし、このところ「自分自身のために生きる」ということを考え始め、そこから探さないようにした。これが実に難しいのだが。

先ほど根拠を示す必要がないとしたのは、そういう点が絡んでいる。結局、自分が良いもの(良いこと)だと思えているのなら、それで良い。わざわざ他人の同意を求めなければならない類のことではないのだ。

さて、前置きが長くなった。読書の意味だった。読書が良いものというのは、二つ理由がある。これは何事にもいえることだと思うが、一つは純粋に楽しいということ、そしてもう一つは自分のためになるということだ。この二つは物事を成し遂げる大きなきっかけとなる。

最近読んでいる、三島由紀夫の『禁色』にこんな一節があった。

「あの女の悪癖は、浮気をするということなのか、あんな亭主にいつまでもくっついているということなのか、そのどっちが彼女の悪癖だか第三者には見分けがつかない」

なるほど、そういう考え方もあるのかと素直に感心した。環境上、図らずも浮気に接する機会の多い自分には、青天の霹靂とでも言うべき一説であった。浮気とは道徳的に許されることではない、というのが元来の固定的な意見であった。そしてそれは決して間違ってはいないと今でも思う。

道徳は思考の幅を狭めることにつながりやすい。道徳はいつでも「正しい」。誰もが道徳の正しさを認めるだろう。道徳とは何かを明らかにせずにこういうことが不毛だというのなら、わかりやすい道徳的行為とすれば良い。恋人への忠誠(もっとふさわしい言葉があるはずだが・・・)を悪とする人がいるだろうか。

だが、正しいからこそそこで思考が止まってしまう。正解した問題を深く見直すことがないように、正しいことは振り返らないのだ。というか振り返る必要を感じないのだ。これもまた間違っていない。

ただし、それでは幅が出ない。真面目一辺倒な人間が必ずしも人間的な面白みを携えていないように、それだけでは不十分なのだ。もっと色々なことを同時に様々な視点から物事を捉えられるようにならなければならない。正しさを常に求めながら、正しさに安住しないこと、これが肝要だ。

こういう勉強は、自らの経験だけでは決して十分には出来ない。だからこそ、読書は自分のためになる。そして何よりも面白い。この勉強が面白いのだ。こうなるとこれ以上ないほど「良いもの」になる。面白いから頑張る→頑張るから出来るようになる→出来るようになるから面白い。