介護等体験最終局面

今週の月曜日から介護等体験5日間の部がスタートしました。正直、特別支援学校に行った後だと結構不安で、5日間も上手くやっていけるだろうかと思っていました。社会福祉施設の場合は範囲が広いので、一概に言えたものではないのですが、特別支援学校体験で知り合った人から「5日間の方は地獄でした」と聞いたときには覚悟を決めたものです。

そんなこんなで始まった社会福祉施設における体験ですが、これが案外楽しいのです。施設は障害者福祉センターというところで、障害を持った方々の職業訓練所のようなところを想像していただければ、さほど遠くないように思います。

社会的制裁を覚悟して、思うが侭のところを言ってみれば、特別支援学校の体験はたった2日間であるにもかかわらず、あまりにきつかった。それは担当した子どもたちが重度の障害を抱えていたからであり、自分が何をしても大抵に反応が無い(少なくとも見た目上は)というのは相当精神的に来るものがあります。

例えば、「絵本を読んであげてください」といわれて、子どものそばで絵本を音読します。しかし、子どもたちはとても聴いているようには見えない。全然関係の無い方向などを見始めたりすると、自分のやっていることの価値を考えてしまいます。本当に音読することに価値があるのか、何か意味があるのだろうか。そう考えてしまうのです。

もちろん、子どもたちに責任があるわけではないことくらいは理解しています。そうでなければとても音読など続けられたものではありません。ただ、やはり価値がわからないのに「何か意味があるのだ」と自分を信じ込ませて何かをし続けるというのは、結構厳しいのです。

救われたと思ったのは、同じように絵本の音読をしていたときに、それまで音読に対して何の反応もしなかった子が笑顔を見せたときです。このときばかりは「音読していて良かった」と心の底から思いました。もしかしたら、単に機嫌が良かっただけかもしれませんが、その一瞬の笑顔だけでかなり救われたのです。

終わった今だからこそ、特別支援学校での体験には自分の成長という面で十分な価値があったと思えるのですが、体験中はそんなことは考えていませんでした。だからこそ、5日間のほうの体験にもかなりの不安を覚えたのです。もし、また自分の行動の価値を疑うようなことに出会ったらどうしよう、そう思ったのです。

実際、上記の知り合いはかなり重度の認知症患者の通う福祉施設に体験に行くことになり、何時間も汚れたタオルを洗ったといいます。声をかけてもわからない、翌日には事情が変わっている・・・相当きつかったことと思います。

しかし、自分の体験施設は知的な障害を抱える人はいませんでした。言語障害を抱えている方の言うことが聞き取りにくいということがありますが、皆論理的に物事を話し、健常者(この言い方はどうかと思いますが適当な語が見つからなかったので)と同じように考えています。障害のために出来ないことを少し補助するだけ、それが仕事であって、また通所者も基本的に出来ることは自分でやろうとしています。

そうであるから、特別支援学校のような感じで精神的に厳しいということはありません。ただし、それで何も問題が無いかといわれれば決してそうではありません。今まで考えているだけの問題が現実のものとなって目の前に現れたのですから、むしろ本質的には特別支援学校のこと以上に事は深刻かもしれません。

障害者に対して、どう接するべきか。これは自分の人生においてかなり重要な問題です。障害者に限らず、社会的弱者(これもあまり好きな言い方ではありません)に「普通」(に見える)の立場からどう接するのか。彼らと接するときにどのような気持ちで接するべきなのでしょうか。

一つ確実にいえることは「行動自体に価値があれば問題は無い」という考え方は間違っているということです。極端な話をすれば「障害者は可哀想だから席を譲ってあげよう」というのは最低の精神性だということであり、そのような精神の下で行われた行動には価値が無いということです。この場合の価値が無いというのは、相手にとってではなく自分自身にとってです。

なぜそれではいけないのか。それはそのような態度は基本的に「自分は優位にある」という一種の差別感に基づいているからです。勝者の驕りとでも言うべきでしょうか、要するに相手を自分よりも下に見立て「保護」する立場にあるのです。あからさまに障害者を差別する最低の人間も世の中には多数存在しますが、自分が隠れた差別感を持っているのではないかという疑いは誰にでも起こりうることだと思います。

今回の体験では、通所者の手伝いが自分の仕事です。困っている姿を見るとつい「助けたく」なります。しかし、本当にそれは相手を自分と同じ価値を持つ人間と認めた上での行動なのか、同情ではないのかといつも不安になります。もし、その動機が同情であったならば、相手を大きく傷つけることになるでしょう。

言葉ではいくらでもきれいごとをいうことは出来ます。「俺は障害者も立派に人権を持っていると思うよ」というのは簡単です。しかし、それは本心ではないかもしれません。本心だと思うのならば、障害者施設で働くことに積極的な意義を見出し、自ら踏み込んでいく勇気があるかと確認してみてください。少なくとも、自分には少し物足りない感じが残ってしまいます。こればかりは誤魔化すわけには行きません。

先ほど、優位な立場からの意見は最低だと述べましたが、それはまさに自分自身のことなのです。「全ての人間は平等であるべきだ」と思ってはいますが、そう出来ていない。今回の体験だって「助けないと」と思ってしまう。これのどこが対等な関係で、平等な立場だといえるでしょうか。