人それぞれ、これは忘れやすい。

土曜日の夜、シゲと大矢と飲んできた。本題もそこそこにして、就活(あるいはその関連活動)で忙しい二人と話が出来てとても有意義な時間を過ごせたと思う。大事な話について、人の意見を聞くということはためになる。飲みに行ったのも久しぶりだったが、これほど将来に関する話で楽しく話したのも久しぶりだった気がする。

色々と話したし、酔っていたということもあって、話の内容自体はそれほど覚えていないのだが、「21世紀に生きる自分たちが未来に希望を抱いていない」という話は面白かった。元々はシゲが話してくれたことだったのだが、21世紀における未来というのは現在の延長としてしか捉えることは出来ず、20世紀の人々が抱いていた未来への憧れというものを持つことが出来ないという話だ。現在9歳以上の人間であれば、誰でも20世紀と21世紀をまたいで生きているわけだが、世紀の変わり目を歴史的瞬間として捉えられた人間という風に考えれば、自分らの世代の人間が世紀をまたいだ最年少といえると思う。

20世紀人にとって、21世紀は確かに未来であったと思う。それは現在の延長としての未来ではなく、未来は未来として独立して存在するような印象だったのではないか。20世紀の終わりに生を受けた人間からすれば、20世紀人の感じていたことなどは想像でしかないのだが、歴史的背景を考えてみればそれは自然なように思われる。

敗戦という極貧の状況から、世界第二位の経済大国へとのし上がった高度経済成長期があったり、三種の神器などがそろいだしたり、衛星放送が始まったり・・・それまで考えてもいなかったことがどんどんと現実となっていく、しかも戦後だけでそうなのだ。このままのペースで行けば、どんな未来になるか想像も出来ない、となるかもしれない。

それに比べて、現代の生活は必ずしもそうはならないと思う。PCの発達は驚異的なものであるが、それ以外を考えてみると、革命的な進歩とは言いがたいように思えるのだ。例えば、洗濯機を取って考えてみると、省エネ化が進み、少ない洗剤に少ないエネルギーで洗濯できるようになった。しかし、それはあくまで洗濯機自身の進歩であって(もちろん人間が作り上げたのだが)、洗濯機が登場した頃のように「人間がやるのが当然であった洗濯を機械がやってくれる!」という革命ではない。洗濯物をたたんでくれる洗濯機が登場したとして、それを私は驚きこそすれ、革命的感動を覚えることは無いだろう。

自動車が空を飛んだとしたら、それは革命的驚きかもしれない。エアコンや洗濯機、新幹線などの登場に負けないほどの感動を与えてくれるかもしれない。しかし、さすがにそこまでは無理だろうと思うのだ。少なくとも私が生きている間は無理だろう。平均寿命まであと60年ほどあるが、そこまでは無理ではないか。星間航行も難しいだろうし、スペースコロニーも出来ないと思う。生きているうちが私にとっての未来であって、死後1秒後からはもう関係の無い世界だ。そういう意味で、未来を現在の延長として捉えている。

しかし、それは必ずしも正しくは無いとも思っている。ひとつは、20世紀人が未来に本当に現実を離れた理想を抱いていたのかどうかということ。無邪気な子どもならともかく、働いているいい大人が未来を現実と離して考えていたとは想像しにくい。希望はあっただろうが、現実に即した希望であったのではないだろうか。実際に、その時代を支えていた人間は、時代が正確に見えるだけにある程度の未来予想図は現実に沿って描かれていたとしても不思議ではない。

仮に時代を支える大人が未来を現実として捉えていたとすれば、我々が未来を現実としてしか捉えられないこともおかしくはない。思い返せば、色々な意味で社会を知らない子どもの頃は、宇宙人の番組が怖かった。それは宇宙に関する知識が無かったためだと思う。同じ番組を見て、両親が宇宙人を本気で恐怖していたはずが無い。つまり、子どもは無知であるがゆえに未来を現実として捉えることが「出来ず」、現実を知った大人は未来の可能性を絞ることが出来るということなのではないか。もちろん、「何となくの高揚感」というものがあったとしたら、その存否は未来観の相違に大きく影響を与えるのだが。

寝ます。未来より今日の睡眠が大事だ。