大学最大の意義

大学の4年間というのは、一見役に立たないように見えながらも、実はとてつもなく重要な時間なのではないか。最近そう思うようになってきた。自分は人に誇れるほどすばらしい大学生活を送ってきたとは口が裂けてもいえないが、それでも大学に入学してよかったと今は思っている。学歴的な意味ではなくて、大学で過ごす時間というのは価値が高い。

この前読んだ『学歴社会の法則』という新書によると、殊勝な学生は1年次からインターンに出かけたりしているらしい。自分にもそういった社会的体験を異様に重視する時期があったりしたものだが、実際は何もしなかったし、卒業までインターンは何もしないだろう。いってみれば、教育実習は教育インターンのようなものだが、それは義務であるからで、企業インターンとは趣が違うことは間違いない。たぶん、義務でなくても教育実習ならば行くだろうが。

客観的に見てみれば、1年次からインターンに積極的に参加する学生と、自分のように勝手気ままに学生生活を送っている学生とでは比べるまでも無く、100人に99人は前者が偉いというだろう。それが普通であり、そうあるべきだ。しかし、それはあくまで客観的な見方であることを忘れてはならない。自分が過ごした時間を過程の面で評価するのは他ならぬ自分なのだ。

大学は自由だ。特に私立文系はバカの代名詞のように使われることもあるが、とんでもなく自由である(経済学部や法学部は事情が違うだろうが)。卒業に必要な単位数を仮に120とすれば、1年間に30単位ずつ取得すれば卒業できることになる。多くとって40単位として考えても、週に10コマで卒業できるのだ。詰めてみれば、毎日1限と2限に週5で出席すれば、卒業できるのである。高校のカッチリ決められた時間割からすれば、考えられないほど暇だ。

しかも、その暇をどのように使うかは全て学生に任されている。大学生にもなれば、親の干渉(干渉と呼ぶべきではないとは思うが)もほとんど無くなり(女性はわからない)、終電で帰宅してもそれをひどく咎められることはない。そういった非公式な圧力からも解放され、完全に近い形で自由を手にすることが出来るのが、大学生だ。この種の自由を手に入れられるのは、退職後の高齢者と大学生くらいのものだろう。

これを客観的に見て有意義に使うか、無意義に使うかはしつこいようだが本人次第だ。惰性に流されてしまえば、単に楽な方向に逃げていくことが出来る。自律(自立ではない)出来れば、有意義に時間を使うことが出来る。しかし、果たして有意義・無意義というのはどこで分岐するのだろうか。少なくとも客観的に評価できることではないのは、間違いない。

大矢の言葉を借りれば、「『無駄な時間を過ごしてしまった』という反省さえあれば、それは無駄な時間ではなくなる」らしい。自分はそこまで怠惰な時間に寛容にはなれないが、この時間の感覚は大筋正しいと思う。

自分としては、時間に意思の力が及んでいれば、決して無駄な時間にはならないと考えている。例えば、客観的に見てボーっとしている2者がいたとしよう。ただ、そのうち1人は何も考えずにだらけているのであって、もう1人は午後のゆっくりとした時間と暖かい陽射しを楽しんでいるのだとする。すると、