without me

以前どこかで目にした言葉なのだが「論理においてwithout meの考え方はあってはならない」というものがあった。誰かのブログだったような気がするが、大変感銘を受けた。自分は首尾一貫した論理がとても好きで、日記にもそんなことばかり書いているが、それを見て以来はずっとそのことを意識している。ただ、誰かを説得するような文章を書く場合、without meであってはならないと思うのだが、日常生活においては自分に関係がないからこそ面白いと感じられることは多々ある。

例えば、映画やゲームの影響から「戦争って格好良い!」という考えを持ったとしよう。年頃の男子であれば、戦士の格好良さに一度くらいは惹かれたことがあると思うのだが、あくまでそれは日本が平和であって、戦争が自分と何らの関係も持たないからこそ抱く感想ではないかと思う。もし日本が戦争中であったとしたら、第一線にいようが銃後にいようが、そのような感想は持たないはずだ。仮に、戦争下でも「戦士は格好良い」と思うことがあったとしても、それは平和な状況下で抱く感想とは本質的に異なるものであろう。

さて、前置きが長くなったが、自分は小説が好きだ。大学に入学してから大分本を読むようになった。教養を深めたいと思うからであるが、小説は純粋に面白いからついつい読んでしまうというような感じだ。新書は必ずしもそうではない、あえて読んでいるような感じがある。こういったゆっくりと読書が出来る時間もあとわずかしか残っていないと考えると、実にさみしくなる。

数ある小説のジャンルの中でも、特に面白いと感じるのは、姦通小説だ。要するに、浮気がテーマの小説である。自分は自分自身の日常生活において、浮気などの反道徳的行為を忌避しているが、純愛小説など比較にならないほどに、姦通小説は面白く感じられる。

一口に姦通小説といってもそこからさらに細かく種類を分けることが出来ると思うが、自分は「無思考から来る姦通」の類は大嫌いだ。無思考からの姦通は本能のなすがままの動物を描いているに過ぎない。そこに人間的性質は見受けられず、面白くないどころかむしろ不愉快にすら感じられる。計算されつくした状態からの姦通や、あるいは矛盾するようだが純愛であるからこその姦通などは実に人間的で興味深い。

具体的な例を挙げれば、夏目漱石の『それから』はそれに該当する。考えに考え抜かれた末の姦通(姦通というにはあまりに純粋すぎ、少なくとも制度上・法律上は姦通ではないのだが)がテーマであって、不道徳であるはずなのに微笑ましさすら禁じえない。夏目漱石が文豪たる所以というのは『それから』だけでも十分だと思う。

あるいは三島由紀夫の作品は、かなりの数が姦通小説である。しかも本能からの姦通というよりかは、計算や理性から姦通にあえて至るというものが多い。理想的な愛を自らの手で作り上げるために姦通という手段を選ぶといったように、「姦通ありき」というよりは、理想が上位思考として存在している感じだ。最終的に、その理想が達成されるかどうかというのは、作品毎に異なるのだが、少なくとも理性的な立場を取る。一見理性と姦通は矛盾するようだが、取りようによっては全く一致するといっても良い。

上記の条件を満たした姦通小説からは学ぶことが多い。道徳に反するがこそ、愛をはじめとする人間の感情をより深く考えることが出来るからであろう。道徳に従っている以上は、何も考える必要が無い。道徳的であることは絶対的な善であるからだ。誰が妻を心から愛する夫を責めることが出来るだろうか。つまり、純粋であればそれを深めることは出来ない。純粋であるためには、常に100%でなければならず、減ることはあっても増えることはないのだ。他の感情が交じり合うことも許されない。

罪を振り返る人間は深くなると信じている。振り返らずに開き直る人間はただの馬鹿だ。自分のような純粋でない人間、純粋な人間などいないとすれば純粋とは程遠いと言い換えても良いが、そんな人間は純粋から学ぶことも多々ある。純粋な人間(あるいは純粋に近い人間)は純粋から学ぶことなどほとんどないだろう。その一方で、純粋ではない人間は不純から学ぶことも多いと思う。逆に、純粋な人間は不純からは何も学ぶ「必要」がない。

学ぶことが多いものが面白いのは真理だと思うが、その実現を望むかといえば全く別の問題だ。実現しないからこそ、関係が無いからこそ面白く感じられることがあるというのは、最初にあげた通りだ。その面白さは偽者であることが多く、また人伝であることは間違いないのだが、そこに非日常は感じ取れる。非日常だからこそ面白いのだ。

もし自分が姦通小説の主人公であったならば、その不道徳さゆえに潰れてしまうのではないかと思う。「良い人間でありたい」という自分勝手な理性的な思考と、「背徳感を味わいたい」という本能的な行動、そしてこの行動を収めるためのかなりの犠牲の不協和音に耐えられない。自分の場合、「誰かを裏切らない」という道徳的行為は自分自身を守るというのが第一の目的であって、その結果をその「誰か」が享受しているのだと考える。とすれば、誰かを裏切るということは、何よりも自分自身を傷つけることになる。だから、姦通は自分には向かないだろう。

もっと純粋でありたいと思う。恐らく純粋を失って、理性が先に出てしまうようでは二度と純粋さを取り戻すことは出来ないだろう。そんな自分が嫌になるような、ならないような・・・姦通小説を好む自分自身もちょっと変なのかもしれない。これもまた、どうしようもないことではあるのだが。