恐ろしき情報化社会

実家のパソコンでネットが繋がらなくなった。実に困った。具体的に言えば、CDを買ってきて、iTunesに入れようとしても認識してくれないのでいちいち曲名を入れなければならないのが面倒だ。たいしたことではないように思えて、ついにshuffleを手に入れた自分にとってはかなり重大問題なのだ。しかもついうっかり実家に忘れてきて、せっかく買ったのに一週間近く耳が暇です。

前回出来なかった本の感想を今日こそ書こうと思う。今回は新書が連続したが、幸運にも結構当たりだった。何度でも言うが、新書は値段の割りに外れが多いから恐ろしい・・・学生に優しくないのは専門書に次いで二番目だ。ジャンルも多いし・・・でも時々思わぬところで新書の知識が役に立ったりするので侮れない。

とりあえず一冊目から、本年通算13冊目になるだろうか。

大人の見識 (新潮新書)

大人の見識 (新潮新書)

書店でやけに推薦されていることの多いのが本書である。近頃「品格」系の新書が氾濫しているように思えるが、どうもそれらには外れが多い気がする。あまりに実際的過ぎたり(つまり品格というには俗過ぎると思えるような)、逆に抽象的過ぎたりすることが多い。それに対して、本書は筆者の体験や歴史的事実から「見識」というものを定義しているので、よりわかりやすい構成になっているように感じられた。

最初に筆者が「あくまで個人的見解である」というようなことを述べているが、まさにその通り。極めて個人的な見解であるといえる。高齢者(筆者は86歳)が自分語りをしているように書かれていて、意見の強制を求めたり、自分の意見の一般性を主張したりはしていない。そうでなければ、なかなか認めがたい点も多々あるのだが、個人的見解として読めば非常に面白いものであった。そして、筆者もそうして書いているから、実に堂々とした書きっぷりであり、読者をなびかせる(というと語弊があるが)力を持っている。

我々現代人は、効率性を追及しすぎたせいか、余裕があまりにもなさ過ぎる。今は学生だからこそ、こうしてゆっくりと本を読み、旅行をして、物思いにふけることが出来るのだが、社会人を見ていると多くはそういった時間的余裕がないように思える。少なくともうちの父親を見ていると悲惨なほどに仕事に忙殺されているようだ。そのおかげで自分が大学に通えていることを考えると、実に申し訳ない気分になるのだが、ならばしっかりと単位を取れという耳の痛い言葉が聞こえてきそうだ。

とにかく、現代人には余裕がない。余裕がないからユーモアもない。ユーモアのない人間はダメだ!という意見。これには賛成である。ユーモアのない人間は、ユーモアのある人間に適うことはないと思う。数字上では勝っていても、数字では表せない部分では決して勝てないだろう。良くあるパターンとしては、ガリベンは成績は良いけれど友達が少ないというもの。自分は決してガリベンを否定するつもりはないし、勉強も出来ないしユーモアのない人間もたくさんいる。そして哀しいかな、自分自身もそういった柔軟性に欠けると自覚はしている。

人間の生き方は法則で表すことはできない。これは自分の信条である。「表すことは出来ない」というのは法則じゃないか!という揚げ足を取ったような考え方は隅に置いて考えると、本書の具体例で生き方を説明しようとする書き方は素晴らしいものであるということになる。具体例同士が矛盾し、激突することも当然あるが、それは人生が多様性に満ちているからで、理路整然と人生を説くことなどは出来ないからだ。かの『論語』がそうであるように。

そういう意味では読んで損することはないだろう。しかし、やはりそこは個人的見解であって、読まなくても良い。少なくとも必読の価値ありとは言いがたい。好みも別れるだろう。個人的な視点、これを忘れてしまっては、この本はトンデモ本になってしまう。自分の祖父が人生を語ってくれたような気持ちで読むくらいが丁度良いのではないか。まぁ自分は祖父という存在を知らないのだが・・・別に困りもしなかったが。


続いて二冊目。

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

こういう本を読んでいると、時々「お前大丈夫か?」と冗談半分本気半分で聞いてくる輩がいます。前に新書『リストカット』を読んでいたらかなり真剣に心配されました。友情を感じた反面、(そういう目で見られているんだなぁ・・・まぁ仕方ないか)とさみしくも思えました。

社会的に認知され始めた発達障害。テレビをつければ夕方辺りに特集が組まれていたりして、教育関係者はかなり関心が高いのではないかと思う。実際、発達障害に最も深く関与する機関のひとつが学校であるのだから、それは当然であるといえる。しかし、大学の教職課程は誰でも出席さえすれば簡単に通過できるものであるために、実際に発達障害に関して正しい知識を持つ、あるいは持とうとする教員志望者は少ないように思える。自分もその例に漏れず、発達生涯に対して正しい知識を持ち合わせてはいない。前期の教育心理学の授業は大いに刺激となったが、それくらいでカバーできるほど甘い世界ではなかった。

教員志望者は、古典的な発想に捉われていることが多いように思える。例えば、体罰を積極的に公認する立場を示すもの。自分自身も必ずしも体罰が絶対悪であるとは言い切れないと思ってはいるが、積極的に用いるべきではないと思う。体罰はある意味で意見の強制であり、また教育者の怠惰でもある。説得を諦め、問題の先送りをしているように感じられる。もちろん、人間全て話し合えば理解しあえると思ってはいないのだが・・・その辺りが難しい。大声ではいえないことだ。

仮に発達障害の子どもを抱えていたとして、その知識がなかったとしたら・・・恐らく騒がしい(あるいは逆に閉じこもりがちな)行動の原因を躾やだらしなさに求めてしまうかもしれない。発達障害であるならば、早期治療が必要であるにもかかわらずだ。どうも学校は今日でも閉鎖的な性格を保持しているし、また保護者を含めた関係者は発達障害の「障害」という言葉に拒絶反応を示しがちだ。つまり、発達障害で医者にかかることを良しとしない。

確かに、我が子が「発達障害」と診断されたら、ショックを受けるだろう。人権派気取り程度では、乗り越えられないショックだ。まだ自分もそのレベルにある。頭では「障害者と健常者を区別すべきではない」と考えているけれども、それはあくまで自分が健常者であることに基づいていて、心からそう考えているのではないと思う。そういった自分の人格上の欠陥も十分に「障害」だと思うのだが、こればかりは時間をかけなければ解決できない。話が逸れた。

とにかく、自分はあまりに発達障害に対して無知であり無理解であった。これが就職の前であって本当に良かったと思う。実に危険な状態であった。最初の方に、一般人が発達障害に関して抱いている思い込みが10項目程度上げられているが、それを認識するだけでも人生単位で大きな影響が出ると思うので、ここに書く。

発達障害は一生治らないし、治療方法はない
発達障害児も普通の教育を受けるほうが幸福であり、また発達にも良い影響がある
・通常学級の中で周りの子どもたちから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある
発達障害児不登校になったときは一般の不登校と同じに扱い登校刺激はしないほうが良い
・なるべく早く集団に入れて普通の子どもに接するほうがよく発達する

これだけでも思い込んでいる人が多いと思う。何となく自分の経験から導いてしまいそうな意見だ。しかし、それが医学的・科学的見地からして間違っているのであれば、その間違いを認めて修正していかなければならない。その修正のきっかけ本書でつかむことができたと思う。途中、医学的な成果の紹介が多くはさまれており、理解できない部分が多々あったが、それを除いても得るものは多かった。子育てに関係する人は、是非発達障害に関する本を一冊でも読んでおくべきだろう。教育の見え方が随分変わるはずだ。

教育に絶対はない。それだけは絶対だ。自分の経験にばかりふとすると頼りがちだが、そこに科学的根拠が存在するとは限らないことを知るべきである。発達障害はこれからもっと注目されることだろう。教育関係者はマスコミなどに先立ってこういった情報を収集しなければならない。今回は明らかにマスコミに遅れを取ったが、教育情報には常に敏感でいようと決心させられた。