学校に行くということ。

中学受験をしているときに思いました、「なんで理科やらないといけないの?」(当時偏差値40くらい)。小学校で思いました、「なんでこんな簡単な算数やらないといけないの?」(中学受験の勉強していると簡単ですよね…調子にも乗ってしまいます)。中学二年生のときに思いました、「因数分解が役に立つの?」(厨二病という恐ろしい国民病です)。大学受験のときに思いました、「正直受験って役に立つのか?」(自分の場合はバリバリ役に立つのですが)。大学で思いました、「大学って行く意味あるの?」(大有りです)。

こんな疑問を21歳になっても抱えている馬鹿な人間ではありますが、ここのところようやく学校教育というものに価値を見出すことができるようになりました。あるいは教育の捉え方というものが見えてきた気がします。大人になると子どもの頃の視点がわからなくなってしまうように、社会に出る直前になって考え方が社会人に近くなるにつれて、私たちは子どもの気持ちを忘れてしまうのでしょう。そういった大人たちが作り上げていく教育行政にゆがみが出ているとしても、それはやむを得ないことなのかもしれません。

世間様では「日本の子どもの学力がOECDの順位で下位だ」とか「ゆとり教育で子どもの読解力が落ちた」とか騒がれていますが、果たしてそんな点にどのような価値があるというのでしょうか。そもそもその点から問い直さなければならないと思います。先進国中の学力が落ちていること、日本人全体の学力が落ちていることは、国家的な視点からすればそれは非常に危機的な状況といえるのでしょう。しかし、旧教育基本法に盛り込まれていた重要な精神を忘れているように思います。

「教育の目的は個人の人格の完成を目指すものである」この言葉は教育者一人ひとりが心に刻み込み、政治家が忘れることを許されない重要な価値を持ったものです。あくまで教育の対象は「個人」であって、19世紀的な「国民」ではないのです。帝国主義国民国家が(少なくとも日本においては)解体し、「国民」の創設が教育の目標ではなくなった以上、教育を国民単位で考えるべきではない。

考えてみればおかしな話で、「学校での勉強なんて何の役にも立たない」といっている人間に限って「最近のゆとり世代は勉強をしない!」などと騒ぎ立てるのです。役に立たないと思うのであれば、学力低下の何を嘆く必要があるのでしょうか。学校の勉強から逃げてきた人間に、現役の子どもたちの勉強を批判する権利はありません。学校教育は人格の完成を目指しているのであって、決して学力の向上が第一の目標ではないということは忘れてはいけませんが、学力の向上が人格の完成の重要な一部分を占めることが多いということもまた忘れてはならないのです。

確かに学校での勉強は直接社会に出て役に立つ類のものではないでしょう。それはほぼ間違いありません。


応仁の乱は何年に起きていますか?」

「1467年です。」

「GOOD!取引成立だ!」


とはならないわけです。応仁の乱が1467年に起きたことを知っていたとしても、その知識自体は何の役にも立ちません。だから学校での勉強は役に立たないというのは判断が早すぎます。もちろん、学校側(特に大学受験での私立大学)のテストの出題傾向でそういった無駄な知識を問うてくるというのは見過ごせない問題ではありますが。

勉強から何を得ることが出来るのかということは、その人次第で大きく変わります。その教科の教え方によって興味を持たせることが出来るかということも当然考えられますが、これだけ情報が溢れる世の中で学校以外に道がないということはないでしょう。そして勉強で学んだことを他の分野で生かすことが出来るかどうかは、自ら勉強に取り組む姿勢を見せるかどうかということに大きく掛かってくると思います。

当時経営難に陥っていたF重工は伝統の水平対向エンジンを搭載したステーションワゴンを開発し、セダンに劣らぬ風格を持たせたことでセールスにおいて大成功を収めました。(引用)

このように、知識はどこで得られるかわからないのです。面倒になったのでここまでです。







ところで、最近、友人S(皆さんも身近な人に当てはめてみてください)が風俗嬢と色々な意味で仲良くしているのです。正直うちに連れてこないだろうかと心配なのですが、来たら塩でも撒いてやろうと思っています。「お前、職業で人を差別するな!」と思ったそこのあなた、それを私に求めるのは酷というものです。堅気の商売ならば何でも認めますが、人の道に外れた人間をプライベートで親切にしてあげられるほど心の広い人間ではありません。

確かに、性産業は必要悪のようなものとして成り立っています、需要と供給があり、規模も大きい。性犯罪の抑止力となっているという話も聞いたことがあります。需要と供給があれば何ら問題はないのでしょうし、実際法律に反していないのですから問題がないと言えばないのかもしれません。

しかし!しかし!それはあくまで自分の知らない範囲のことではないでしょうか。例えば、中学で比較的仲の良かった同級生が風俗で働いているとしたら(しかも単に金がほしいという理由だけで!困ってもいないのに!)、そこは人として、かつての友達として止めはしないでしょうか。きっと止めると思います。性産業を認めるといっても、それはあくまで見えない部分でなければならない。だからもし、自分と関係のないところで性産業が成立しているのであれば、別に私も文句は言いません。

どうしてもお金がなくて、弟や妹を食べさせてあげるために仕方なく身体を売るというのであれば(そんなマンガ的展開が現実にありえるとすれば)、身近に風俗嬢が居ても許すでしょう。「許すとか許さないとかお前は神にでもなったつもりか!」ということは今は問題ではありません。自分が関わっても良いと思える人間なのかどうかということです。金があるのに、育ちが良いのに、風俗嬢になるような人間を私は決して認めない。

しみ・・・いや、Sも最初はヒモになりたかっただけのようです。風俗嬢は金を持っている、だから何度か奢ってもらってオシマイだ!(ハトヨメ風に)という考え方だったようです。しかし、如何せん容姿が良かった。そして情が移ってしまった。恐れていたことが起きたわけです。そこで彼は葛藤しているようですが、まぁそれは当然の報いでしょう。その選択の責任は彼自身にあるのですから(参考文献『ぼくらの』)。

しかもまた浮気です。それが心が痛んでどうしようもない。彼女(風俗嬢の方ではありません)は人間として尊敬できるので、その分哀しくなります。でも今はまた別の話。

まぁSHIMIZUが誰と付き合おうと好きにしたらいいと思いますが、とりあえずこっちに来んな!ということです。