クリスマスと正月

まぁ子どもにとってはこれ以上ない良いイベントの連続ですが、大人になるにつれて一部の人は特にクリスマスに対して年齢と反比例した哀しさや悔しさというマイナス感情が高ぶるようです。あぁ、微妙にサンタクロースを信じていた幼稚園時代が懐かしい。あの頃は20時まで起きてるともう眠くて眠くて、「サンタクロースはいないんだよ」なんて数少ない友達から聞いても嘘なのか本当なのか確かめようが無かった。確かめようが無いだけに夢があったわけですが。

別にクリスマスという行事を憎んだりはしないのですが、確かに街の浮かれた雰囲気を敏感に感じ取って人並みにちょっと暗い気分にはなるものです。竹本くんもクリスマスには居場所があるのかと問われているようで嫌だといっていましたが、彼の場合はちょっと違いますし、比べるのもおこがましいということで僕はダメな人間です。今年は「そもそもキリスト教徒じゃないんだからクリスマスなんて関係ないだろ!」と熱くなることもなく、淡々と過ごしたのでした。プリントを作りながら。

クリスマスはプレゼントを渡すのが習慣となっているわけです。うちでも家族内でプレゼント交換が行われまして(といっても真の意味での交換は自分⇔両親だけでしたが)、自分は両親に電気ケトルをプレゼントしました。両親は自分に靴をくれました。しかし、ちょっと待って欲しい。本当にクリスマスのプレゼントはそれで良いのか・・・と疑問に思うのです。

クリスマスプレゼントは本来サンタに基本選択を任せるもののはずです。ジャンルだけサンタに頼んで、あとはサンタのセンス次第。がっかりするリスクは多分に背負っているけれども、何が来るのかわからない楽しみは底が知れない。そこにこそ温かい心が存在するのではないでしょうか。お金に換算することの出来ない感動があるのではないでしょうか。

つまり、「これが欲しい〜☆」とか甘い声を出したのに即座に反応し、高額な商品を渡すべき人の注文で目の前で「クリスマスプレゼントだよ☆」と言って誇らしげに買い与える(そう、まさに買い与えるのです)行為のどこがクリスマスなのか、と問いたいのです。そうじゃないだろう、そうじゃなくてもっと楽しく過ごしたい!クリスマスくらい打算的じゃなく過ごしたい、そう願うのです。

仮に、「うわぁ、なんじゃこりゃあ・・・」と思うようなプレゼントをされたとしても、それを温かい心でもって喜びに変え、楽しむべきではないでしょうか。逆に、自分が予想していたものよりもはるかに嬉しいもの(欲しいものではなく、嬉しいものというのが肝心です)をくれたとしたら、その喜びはそれこそプライスレスでしょう。

確かに、お互いが欲しいものを自分で買ってきて相手のお金を払うというのがもっとも合理的です。間違いが起こるはずも無く、誰も損をしない。自分が欲しい靴をもらったのだって、親にコーヒーを入れるのに便利なケトルをあげたのだって、もちろん嬉しいといえば嬉しいのです。しかし、そこにはクリスマスのイベント性や楽しみは微塵も存在しない。クリスマスを台無しにしているのです。

極端な話をすれば、そんな風に打算的で合理的なプレゼント交換をするのなら、直接金銭の取引をしたら良いじゃないか、ということになるのです。彼女から彼氏へのプレゼントが25000円で、彼氏から彼女へのプレゼントが30000円だったとしましょう。だったら彼女に5000円渡して好きなもの買えば良いじゃない!それと何が違うのですか、何が楽しいのですか。相手のことを考えて買ったプレゼントのほうが余程嬉しいものではないのですか。そういうことに、今年は気が付いたのです。ひとりで。

そんなわけで、来年からはもっと場の雰囲気や嬉しさという人間的な温かさに重点を置きながらイベントを過ごしてみたいと思います。年明け最初の正月イベントも、風流に楽しく過ごしてみたいと思います。お金で買えないものがある、よく知っていながらも、実は実践しにくい言葉なのかもしれません。




まぁ、クリスマスを楽しく過ごせるなら何でも良いけれども。