ウソをウソと見抜けない(ry

秋は空が深く澄んでいて、実に良いものです。なんて思ったことはこの秋にはありません。なぜなら地面ばかり見ているからです。たまには上を向いて歩いてみようかなと思います。ここのところずっと気が晴れずに、本当に今日の空模様のようでした。いや、昨日は全く別ですよ。では、一体何を悩んでいたのかというと、またいつもと同じ抽象的なことで、「そんなこと考えてもどうしようもないじゃないか」としか言いようのないことなのだが、しかしなかなか悩ましいことなのである。

今まで私は、特に具体的な努力をしたわけではないが、「一流」だとか「本質」というものを見極めようとし、また追い求めてもきた。人間として一流になりたい、ではなるためにはどうしたら良いのだろうかということはある程度自分なりに考えてはきたのだが、では果たして「一流」「本質」とは何なのか、そして仮に「一流」「本質」が定義できたとしてそこにどれほどの意味があるのか。

特に気にかかったのが後者だ。自分なりに「一流」「本質」を定義することが出来たとして、ではその実現はどのような意味があるのだろうか。恐らくそれは自己実現と呼ぶことが出来るのだと思うが、もしかして単なる自己満足に過ぎないのではないか。そんなことが不安になった。

満足には少なくとも二種類あると思う。ひとつは自己満足、そしてもうひとつは他者から評価されてこその満足だ。最近の自己愛の風潮からすれば、他人からの評価などは下らないということになるのだが、決してそんなことはないだろう。単純に言えば、他人から認められると嬉しいというだけなのだが、それが「ついでに嬉しいこと」なのか「何よりも嬉しいこと」なのかでは全然違う。大学受験で言えば、「東大に合格した」という出来事があったとして、「合格したこと自体」が嬉しいのか、「合格して名声を得た」ことが嬉しいのかということだ。

私は少なくとも人並みには名誉欲はあると思う。「一生を平穏のうちに過ごすことができれば満足だ」とは常日頃から思ってはいるが、その一方で何かで成功して地位と名誉を手に入れたいとも思う。今のところ私は自分の特別な才能というものを見つけていないし(むしろ存在しないだろう)、時の流れに上手く乗ることが出来る人間だとも思えない。だから、名誉欲の方は退けざるを得ないわけだが、きっと期待すれば間違いなく落胆するだけだから逃げているだけだろう。

ここで話を戻す。仮に私が私の求める「一流」「本質」を定義し、手にすることが出来たとしよう。すると私は心の平穏を手に入れることが出来るだろう。解脱というのに近い状態といえるかもしれない。その「一流」は他者評価を経ていないわけだが、それで果たして揺らぐことはないのだろうか。「あの人はすごい」と言われてこそ、完全な安定を確保することが出来るのではないか。

例えば、小説を書くことが好きな人がいたとする。自分では完璧だと思える小説を苦労の末書き上げることが出来た。自己満足の極みを味わうことが出来た。しかし、それを友人に見せてみると、どうもその反応は芳しくない。他の人に見せても「普通」といった感じだし、賞に応募してみてもかすりもしなかった。こんなときにその小説を書くことが好きな人は、安定を持続させることが出来るのか。

精神的な問題であるために、それを単純に実社会に投影することは出来ないとは思う。そしてさらに小説は他人に読んでもらうものであり、「一流」や「本質」を求める行動とは趣旨が全く違うといえるかもしれない。ただ、私はこの二つは極めて類似した状況であると考え、その考えの上に進展させたい。

他者による高い評価が必要だとすれば、相応の努力をしなくてはならない。もちろん、自己評価を高くするための努力と他者評価を高くするための努力が一致であることが理想ではあるが、所詮自分は自分であり、他人は他人なのだ。自分ですら自分のことが時々わからなくなるのに、他人に自分のことを完全に理解することなど出来るわけがない。ということは努力は必ずしも一致するわけではなく、むしろ一致する方がめずらしいといえる。

しばらく前に流行した新書に『人は見た目が9割』というタイトルのものがあった。私も乗せられて思わず買ってしまったが、なかなか面白かったと思う(確か古賀の評価は結構低かった)。9割というのは言い過ぎではないかと思うが、初対面の人などであればそれくらいはするかもしれない。どんなにルーズな人間でも、見た目や話し言葉を注意すれば評価を受けることが出来るのである。長続きするかどうかは別であるが。

つまり、極端に言えば他人は「騙せる」ということではないか。詐欺師が愛する振りをすれば、その愛が贋物であることが発覚しないように、贋物であっても他者評価を高めることは出来る。ブランド品の贋物を持っていても、税関職員や鑑定士でもない限りそれを見破ることは出来ないだろう。実際、時々ニュースになる偽ブランド物を私は見抜けた試しがない。ということは、「これはブランドの本物ですよ」と言われて、ブランド物をプレゼントされたら、私は大喜びするということである(ブランド物が好きなわけではない)。