環境決定論、だっけ?

山県有朋あたりが演説で「主権線と利益線」を語ったことがあったと思う。日本の国境線が主権線、そして朝鮮半島までが利益線であり、主権線は当然のことながら、迅速に利益線を確保しようという話だったはず。清やロシアの脅威があった中で、日本本土を主戦場にしないために朝鮮半島を確保しようということで、日本は朝鮮を併合した、という考え方があり、それを環境決定論とか環境地理学というらしい。これはこれでとても興味深い分野だ。といっても、日本史は今日は関係ない。

父方の実家の人間関係は、ほぼ崩壊している。父は4人兄弟の末っ子なのだが、長男は絶縁状態で音信不通、次男は外交官で日本にいない上に仲が悪い、三男とは比較的良好な関係だが本心はそうでもないらしい、さらに嫁姑の問題も・・・血が繋がっているのにそこまでお互いを憎むなんて戦国時代かと思わせるほどだが、我々孫世代が何の確執も無くやっていけているのがせめてもの救いだろう。

父は現在、実家の青森に単身赴任して、長男の会社の経営に関わっているらしい。長男の放漫経営で会社は傾き、どうやら一部事業を分離させて新会社を設立しただとか・・・何をしているのかよくわからん。とりあえず長男の責任で経営が傾いたのに、その責任を自ら取ろうとしないことに対してうちの父母は相当反感を抱いているようだ。三男の一家などは名前を呼ぶのも嫌だといわんばかりだ。

私には何ら関係のないことだが、私が生まれる前に亡くなった私の祖父は青森で会社を興し、一代でかなりの富を築き上げたそうだ。青森での選挙などにも深く関わったそうで、いわゆる地方の名家を作った。要するに父たち4人兄弟はぼんぼんとして育ったことになるわけだ。

特に長男の可愛がりようは尋常ではなかったようで、何一つとして不足することなく生活してきたという。かく言う父も大学入学で上京したときに、目黒にマンションを買ってもらったそうだから、人のことをいえたものではないと思うが、そんなことはもちろんいえない。海外にも結構行っているし、大阪万博にも行っていた。その日の食費すら心配な時期が毎月やってくる息子としては羨ましい限りである。

それはいいとして、父と母は、特に母は、その長男が不自由なく育てられてきたことであんなダメ人間になってしまったのだといって、むしろ哀れんでいる。ダメ人間になった責任はその教育方針に依拠しており、責任は育てた側にあるという。それも確かにあるだろうが、全くといっていいほど同情する点はないと私は思う。その人がどんな人間になるかということ、そしてその責任は一体どこにあるのか。

ところで、私自身も中学から大学まで私立に通わせてもらい、重要なことは何一つ不自由しないといっても良いような生活を送ってきたという点では、父の兄弟と本質的には何ら変わりはないのだろう。そんなことを出来た両親をこの上なく尊敬している。自分ではとても出来そうにはないのが哀しいところだ。頑張ろうと思う。

ちなみにたった今、甲子園決勝戦で満塁ホームランが出た。鳥肌が立った。これだから甲子園は面白い!

私は、人格を形成する大きな要因は環境にあると考えている。環境というと非常に範囲が広いが、家庭の状況、学校の状況、社会の状況の3つがその大部分を占めるだろう。家庭では何人兄弟なのか、経済状況、住所、親の教育方針などがあり、学校や社会での状況というのは周りに家族以外のどんな人間がいたかという点に絞られると思う。人間は一人で育つことが出来ない以上、人格形成には間違いなく環境がからんでくる。

仮に一人の人間がダメ人間になってしまったとして、それが環境に大きく起因するとしよう。果たしてそのダメ人間になった責任は環境にあるといって同情すべきなのだろうか。同情という言葉は適切ではないかもしれないが、ここではそういった細かい言葉の違いは気にしないことにする。

もちろん、ダメ人間になったのは何といっても本人の責任だ。最終的な決断を下すのは本人なのだから、選択を間違っただけに過ぎない。年齢がまだ低いならば十二分に同情の余地はあるが、高校を卒業したくらいからは本人次第だと思っている。ただ、教育というのは人の心に多大なる影響を与えることを忘れてはならない。

まぁダメ人間になってしまった人を同情するのはキリストやブッダくらいのものだろう。ダメ人間は自律が出来ていないわけで、そこには他人の介入する余地は無い。しかし・・・自分で書いていて心が痛くなるのはなぜだろう。NEETに同情する人が少ないのも同じ話だ。

だが、例えば幼い頃に虐待を受けていた人が、大人になってすさんでしまったとしたら、そこには同情の余地があるのではないかと思うし、実際に同情する人もさっきよりは大分増えることだと思う。その人のすさんだ人格には間違いなく虐待が影響を与えていたとしたら、それは環境に、そして虐待者にほとんど全ての責任が課せられるだろう。前者は自分自身に責任が課せられ、後者は環境に責任が課せられる。

その違いは選択肢があるかないかという点にあらわれてくるのだろう。あるいは環境が喜劇的か悲劇的かという違いでもあるのだと思う。

環境が豊かであった場合は、物事の分別つく年齢であれば、数多くの選択肢の中から自ら選ぶことが出来る。親の庇護の下にあるうちは完全なる自由な選択が難しい場合もあるだろう、しかし、それはなるべく早く経済的自立を図り、それを達成することで選択権を自らの手中に入れることで束縛から脱することが出来る。結局、最終的には自らに選択権が与えられる。しかも、幼い頃に人生に絶望するような体験をしていなかったのだとすれば、そこには自分の意志こそが全てになる。自由には責任が必要なように、自由な選択権を持っている人間はその結果の責任を自ら追わなくてならない。

逆に環境が貧しいものであったとしたら、選択の自由は無くなってしまう可能性が高い。全くなくなるといったことはないとしても、選択肢が狭められるのは間違いないだろう。極端な話、食糧難で飢えているときに好きな食べ物を食べることが出来ないのと同様だ。好きなものを好きなときに食べられる人間が、好きなものばかり食べていて健康を害したとしても、それは自律が至らなかったことになるが、最低限しか食べられずに健康を害してしまったとしたらそれは本人には何の責任も無いだろう。

結局は自由には責任が伴うということだ。自由を手にしながらその責任を回避しようとすることは自由を放棄することになるだけでなく、信頼も失うことになる。