Amazon便利すぎワロタwww

Amazonはなんて便利なのでしょう、何といっても家にいながら本を受け取れるのは最大の魅力です。しかし、本のカバーがついていないのがちょっとした難点かも。ブックカバーは本屋の紙のものを使うのが好きなので、そこだけ残念です。まぁあとは生協に比べれば安くならないくらいですか。

先日、以下の3冊が届きました。23年間にわたって書かれた長編小説、自分の生きてきた時間よりも長い時間をかけて書かれたというのに驚きです。文章は難解で読むのにも一苦労ですが、面白い視点がいくつも出てくるので読み応えはあります。

神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)

神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)

神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇 (第5巻) (光文社文庫)

神聖喜劇 (第5巻) (光文社文庫)

まだ2巻までしか読んでいないので、何とも感想も述べがたいのですが、新しい視点・考え方を1つ教わりました。この本は驚異的な記憶力を持つ主人公が、アジア・太平洋戦争中の対馬要塞に二等兵として徴兵され、軍隊という不可思議な組織と闘っていく(といっても熱い主人公ではなく、虚無主義者です)という内容。

主人公は虚無主義者であるため、この世に対する未練というものはほとんど無い。この世は真剣に生きるに値しないと言い切る秀才(ちなみに東京帝大法学部)で、戦争に行く理由も、自分が選ばれた人間であるならば戦争で死ぬことは無い、必要ない人間であれば戦争で死ぬだろうということを見分けるためでした。そのような一種の運命論も面白いのですが、それ以上に面白いのが以下の意見でした。

彼が戦争に行かざるを得ない、あるいは自ら戦争に行くことを決意したのは、彼が何らの戦争を防ぐ手立てを今まで行ってこなかったことにありました。戦争に行きたくないのであれば、何でも良いから何か戦争を防ぐ行動を事前に実施すべきで、そうでない以上戦争を拒否できないという考え方。よくよく考えれば当たり前かもしれませんが、日常においては忘れられがちな考え方だと思います。

これを現在の日本に応用して考えれば、選挙に行かないのに政策に反対することは出来ないということになります。「消費税を挙げる政策に反対だ」とか「現在の内閣は嫌だ」と主張するのであれば、自ら選挙に行って現在の状況を変えるための努力をしなくてはならない。その努力を放棄して利益を主張することは道理に反することになります。

主張する権利を獲得するための努力の義務、ということになるのでしょうか。権利と義務は表裏一体、それも実は当たり前のことです。

しかし、難しいのは努力の義務を果たしたからといって、自らの主張を必ずしも実現できるわけではないということです。仮に戦争が起こる前に反戦運動を行っていたとしても、実際に郵便受けに赤紙が届けば戦争に行かなくてはならない。努力を行っていても、自らの主張は公権力の前には何の力も持つことはないのです。選挙も同様、選挙に行ったからといって、自分の主張を通すことが出来るわけではありません。ただ主張する権利を得るに留まります。

それは人々が集まって社会というものを形成している以上は止むを得ないことです。その社会が嫌ならば他の場所に行くしかない。結局人生というのは選択で、自分の理想により近い選択肢を選ぶほかは無いのです。これも実は当たり前のこと、このことを認識せずして文句ばかり言うのは見苦しくてどうしようもありません。

ここまで忘れがちな「当たり前」を述べてきましたが、そのこと自体は新しい考えとはいえません。この本において、つまり戦争という命を懸けた状況においてそのことを主張するということが新しいと思います。命の前においても道理を優先する考え方、それは自分にとって斬新な視点でした。

現在、命の無条件の肯定が疑われもせずにいます。もちろん、むやみに命のやり取りをしてはならない、それは当然です。他者に命を奪われることなどあってはならないし、出来ることならば自殺もすべきではない。しかし、命は必ずしも何にも優先されるべきものかどうかという議論は足りていないと思います。これは決して命を軽視しているわけではないことをあらかじめ述べておきます。

この主人公は命よりも道理や運命論、自分の選良性の判断を優先させました。それらの考えは無条件で非難されるべきではない。そう思います。人間は一人で生きているわけではないので、自分ひとりの判断だけで命を取り扱うことは出来ないし、すべきではありませんが、もし仮に自分の周りに死をもいとわない人間しかいなかったとしたら、本当に一人で生きているとしたら、そのときは命は自分の手にあります。

自分の命が自分の手の中にあるとしたら、自らの判断で命を扱うことが出来ます。そこで道理を優先させて死を選択することは正しいことといえるでしょう。古くはソクラテスの死、キリストの死などにその例を見ることができると思います。ソクラテスは自らの信条の正しさを証明するために、逃げずに死を選び、キリストは自らの考えを信じて死刑にかかった。彼らの死は後世から賞賛されました。

もし、ソクラテスやキリストが命を優先して死から逃れたとしても、それは決して非難されるべきではないと思います。しかし、そうであったならば後世に影響を与えることは無いか、あるいはその影響は極端に小さいものになっていたことでしょう。自らの精神に順ずるという、思考力を持つ人間としてある意味最も理性的な死に方は人を納得させるに十分だったために、今でも彼らは世界中で語られ、信じられるのだと思います。

命は何にも優先されるべきものか、あるいは命よりも精神性は重要なのか、という2つの意見があると思います。そのどちらも正しい。どちらも正しいというのは矛盾しません。全ての人間にとって正しいというのではなく、個人単位の人間がどちらの考えを支持しようとも、間違っているということはないのです。

ただ、それが間違いでないと主張するためには、自らの思考に基づいて判断を下すという行動・努力が必要です。親から、教師から、メディアから教えられたから、という盲目的にどちらかを信仰していたとしたら、それは間違いです。自ら考えるという努力を放棄しているのですから、主張には根拠が無く、主張する権利も与えられません。そのことがやはり忘れられていると思います。

例えば、一時期議論の的となった愛国心教育の問題です。これは自分は正しくないと思います。それは愛国心というものを国民に考えさせ、選択させるという機会を奪うからです。仮に愛国心が道徳的に正しいものであっても、盲目的信仰であるならばそれは正当性を失います。恐らく、愛国心教育には疑問を抱いている人がたくさんいることでしょう。

しかし、それは道徳に対しても同様にいえることです。「年上には敬語を使いましょう」などという「美しい」文化は時代が進むにつれて劣化してきているといわざるを得ない。それを嘆く「有識者」や政治家は山ほどいますが、ここでもまた自ら考えるということを忘れています。選択のための義務を忘れています。

自ら「年上には敬語を使うべきだ」と思考の後に判断を下したとすれば、それは正しい行為です。逆に、「長く生きているだけで、尊敬することも出来ない人に敬語を使う必要は無い。尊敬できる人だけに敬語を使おう」と考えたのであれば、敬語を使わないことも正しいのではないでしょうか。道徳という権威の前には、「反道徳的」な考え方は否定されがちですが、そのような否定の上に立った「道徳」にどれほどの価値があるのでしょう。

かといって自らの思考が何物にも優先されるものではないということも忘れてはなりません。その思考に優先されるものは、法です。極端に言えば「私は殺されても良いから、他人を殺したとしても良いではないか」という狂った考えを導き出したとしても、それは否定されなくてはならない。それは他者からの説得であっても良いですが、それを聞かない人間のために法があります。

今の例はあまりに理不尽であるために適性を欠いたかと思いますので、もう少し議論の余地のある例を挙げます。「復讐は認められるか否か」という議論があったとします。自分としては復讐は認められても良いと思いますが、それは法によって禁じられているために許されるべきではないと思います。多数が賛成して成立している(ことになっている)法は個人に優先されなくてはなりません。法を疑うことは必要だと思いますが、勝手にそれを犯すことは絶対に許されません。

順法精神の上に思考はあるべきですが、法自体を疑う必要もある。常により良い選択をできるように、自らの判断力を備えていなくてはならない。特にこの溢れんばかりの情報社会においては、個人の判断力がその人生を左右するといっても過言ではありません。

現在、文科省などの教育行政機関においては道徳教育の強化が提案されていますが、自分は道徳教育よりも判断力養成の授業の方がよほど必要だと思います。これからの判断力社会に適応するために、国際化に対応するためにもより高度な判断力が必要です。それは考える機会無くして育つことはありません。その機会を学校では与えるべきです。何も妄信しないこと、そのことはこれからの生きる指針の根本においておくべきかもしれません。