夏ははたらき・・・

春は春講、ようよう生徒増えゆく、教室狭く・・・夏は夏期講、教室暑くたまらぬ・・・清少納言が塾講師だったらそういうだろうなぁ・・・などと授業中に瞑想するダメ講師です。でも、ようやく夏期講習も前半戦終了に近づき、まもなく真の夏休みを迎えることが出来ると思われます。それにしても長かったこの12日間、朝から晩まで教室に詰めっぱなしで、授業時間が半端にあいているから何が出来るわけでもない。小学2年生の少年少女に振り回されたりと悩みに悩んだ2007年の夏期講習です。

さて、今日からは一応14時半には終わる期間なので、少しは楽です。やっぱり塾を出るときに日が傾いていたり、空が真っ暗だったりするとお先も真っ暗な気分になります。生活するためにバイトしているのか、バイトするために生活しているのかがわからなくなるような気がします。それでも辞めるわけにはいかない。割も良いし・・・でも結構楽しかったりするのです。

今日はそんなこんなで久々に時間のある夜を過ごすことが出来ています。ただひとつ心配なのが携帯の電池が切れてしまったことで、明日まで回復できないこと。機種が古く、接続の調子が悪いので実家に帰って自分用の充電器をつかわないと充電できないのです。困ったことだ・・・重要なメールが来ていたらごめんなさい。。。電話とか来ていませんように。

そんなわけで、今日はその貴重な開放された時間を使ってストレスコーピングです。日記をつけるのはストレスの解消に繋がるらしく、教育心理学の先生がお奨めしていました。思えば確かにストレスのたまるときは一気に長文を書き上げることが多いです。書いて考えているうちに自分が何を求めているのか、何にいらいらしているのかがわかってくるので、結構良いと思います。今週に入ってからずっと考えていることがあります。それについて今日は少しまとめてみようと思います。




「自殺は良いと思いますか、ダメですか」と問うたならば、合理主義者や虚無主義者などを除けばそれを否とするだろう。その理由は様々で、「命はひとつしかない」「あなただけの命ではない」「残されるほうの気持ちになってみろ」などという。確かにそういう言葉には道徳的な力が強く、自殺を否定するには十分な力を持つだろう。古来宗教においても自殺は最大のタブーとされがちである。やはり自殺は悪なのであろう。

しかし、事はそれほど綺麗に割り切れるものではない。あくまでそれは自殺を考えない人間から見た考え方であって、真剣に自殺を考える人間には届かない言葉だ。一口に自殺といっても、積極的な理由からの自殺もあれば、いじめなどに耐えかねて逃げるように命を絶つ自殺もある。もし仮に私が自殺をするとすれば、おそらく積極的な理由を以ってして自殺をすると思っている。自殺の可能性がゼロだなどとは口が裂けても言えない。

もちろん、今現在死にたいと思っているわけではないし、自ら命を絶てばそれな何よりも親不孝だ。これまであり得ないほどの恩恵を与えてくれた両親に最大の不孝を働くことなど出来ないし、絶対にしたくない。死ぬとしても、少なくとも両親の後になるだろう。

私は両親への配慮、ある意味遠慮から自殺を選択肢から排除している。余程のことがない限りその選択肢を実際に選択することはないだろう。しかし、それはあくまで両親への配慮であって、自分自身の強い生きる意志に基づいて自殺が排除されているわけではない。少なくとも両親を不幸に「しない」という消極的な理由に過ぎない。

私は当然、自分のために生きている。私だけではなく、すべての人間は自分のために生きている。他人のためにだけに生きている人はいない。それは何ら悪いことでもなく、むしろ自然体でありあるべき姿だと思う。では、私のために生きている私は、どのような生きる理由を持っているのだろう。

生きるための消極的な理由ならばいくらでも挙げることが出来る。「死ぬのが怖い」「終わってしまったらもう戻れない」「死んでから後悔は出来ない」などなど、様々だ。しかし、それを理由に生きていると惰性で生きることになるが、そうは生きたくない。ただ生きるだけではなく、よく生きなければならない。それは命題であり、一生の課題だろう。そう考えると、もしかしたら自分はとても生に対して積極的な人間なのかもしれない。

積極的に死に向かっていく理由は現在はないが、かといって積極的に生きていくための理由も見つかっていない。そのことに気付いてしまった今、自分の生活が充実しないのはその理由の欠如だと思う。追い込まれていないこの状況だからこそ、自らその理由を手に入れなければならない。ただ生きるだけではダメなのだ。

毎日が色褪せ、非日常がめずらしくなるこの時期に、日々のちょっとした幸せだけを糧に生きていくことは出来ない。高校生までは大学というクッションがあるからこそ毎日に没頭することが出来るのだと思う。今、その瞬間を楽しめば良いし、受験勉強は更なる高い目標を与えてくれる。成績が伸びればそれは確実に自分の力が増していることになるし(役に立つか立たないかは議論があるが)、その種の成長を生きる理由に挙げる人も多いのではないかと思う。小学生は明日何があるかわからない、だから明日も生きたいと願う。それだけで十分に生きるに足る理由だ。

毎日が繰り返され、明日起こることの大半が予測できるようになってからは、どうしたら良いのだろう。明日の不思議を楽しみにすることは出来ない。旅行に行く楽しみはあるがそれはあくまで一過性だ。日々の糧にはなりえない。

仕事で実績を上げること、家庭を持つこと、人類のために貢献すること・・・それらの生きる理由を見つけた人は、悩みながらも明るい人生を送っているのだろう。その日その日の消極的な生きる理由しか見つからない人間はダメになる。これは自己体験だ。明日を生きるための理由・目的、今自分が出来ることは何だろう。

大学生には、自分探しというのが流行るものだ。高校までの縛られた生活から抜け出し、自らの力で立たなければならなくなる。その立つための根源となる力を探しているのだろう。でもその状況になるまで、それを実感することは出来ないと思う。だから、その理由がわかるだけではなく、理由を実践する状況にいなければならない。

人間は不思議な生き物だと思う。そのような自分だけのための生きる積極的な理由のはずなのに、そこには必ず他者が介在する。自分のためだけに他者を頼らざるを得ない。当然といえば当然だが、自分の行動を喜んでくれる人がいるから頑張れるのだ。どんな人間でも、たとえ孤高の芸術家でも他者がいなければ生きていけない。

そういう意味では、家にこもって考え事をしているだけでは何も見つかるはずがない。実際に外に出て、他者と交流することでようやく自分の生きる理由が見えてくるはずだ。それはもしかしたら依存になるかもしれない。でも何もないよりははるかにマシだ。恋をすればその人のために生きようと思う、尊敬する人を見つければその人のために頑張ろうと思う、喜んでくれる人がいればもっと喜んでもらいたいと思う。それらが結局自分の最大の喜びだ。手っ取り早いのは好きな人を見つけてその人のために生きること。人一人を幸福にすることも並大抵ではないが、社会全体に幸福をもたらすよりは身近な内容だ。

そんなことで良い。生きる理由を見つけたい。逆に見つからなければ、自殺という選択肢を自ら選択することも悪いことではないと思う。人を哀しませることは悪であるが、自殺というだけで無条件に批判されることはないという意味だ。死ぬ理由もないが生きる理由もない、いわば生と死が天秤につりあっている状態で、いつ気持ちひとつでどちらかに傾くかわからない。そこに消極的な死を防ぐ理由すらないときは人は死を選んでしまうかもしれない。

まだまだ知らないこと、わからないことがたくさんある。今の私にはそれだけでも死を避ける理由になりえている。良心のストッパーと組み合わせて考えれば、まだ死ぬ時期ではない。世の中を見て回り、色々な考え方に触れていく。今はそれでも我慢できる、でもいつか生きる理由を見つけなければ、そのときはどうなるかわからない。あせってどうにかなる問題ではないが、やはり心のどこかでは、いや大部分では焦ってしまうのである。

それにしても夏のカレーはどうしてこんなに美味しいのでしょう。