不幸の科学

日本のサラリーマンの8割くらいは実は天災などの破滅願望を持っているとかいないとか。どこぞの怪しい記事やらネットやらからそんな情報を得たような気がします。ということはつまり、現在の自分が破滅願望を持っているとしても、むしろそれは健全なことであって、破滅願望を持たない人は逆に少数派だ!なんて哀しいことを考えたりします。

しかし、この破滅願望とは何なのでしょう。破滅が良いことなわけがない。人間誰しも死は避けたいでしょうし、生きているうちもなるべく穏便に生きていたいと願うもの。特にこれといって強烈な苦痛もない普通のサラリーマンや大学生が破滅願望を抱くには何らかの理由があると見た。

そもそも破滅願望といっても色々あるように思えます。隕石が降ってきて地球が一気に滅んだりとか(これはなかなかないだろう、あるとすれば相当のレベルに達しているに違いない)、戦争が起こったりだとか、地震が起こっただとか、車に轢かれただとか、風邪を引いただとか・・・地球単位・宇宙単位の問題から、個人の健康の問題までその種類は実に豊富。

この破滅願望、大まかに分けて2種類になると思います。ひとつは他人を巻き込む形、もうひとつは自分一人に破滅が降りかかる形。この違いは実に大きく、またそこに表れる人間性にも大きな違いがあると思われます。

よく思うのは後者のパターン、つまり自分だけに不幸や破滅が降りかかってくるタイプ。このタイプは単純に非日常を求めているだけに過ぎないように思われます。例えば、風邪を引きたいと思う非常に馬鹿げているレベルの破滅願望の根本には、忙しい日常から正当な理由で逃げ出してゆっくり休みたい!という考えが存在するのであって、決して風邪を引くことが大切なわけじゃない。要するに日常から逃げ出す大義名分が欲しいだけです。

情けない話ではありますが、これは正直ならざる話です。時として風邪や怪我を理由に逃げ出したくなるもの。やはり理由がないのに休みを取ることはどこか後ろめたさを感じるものです。どっしりと構えて休みたい。そういう気持ちでしかないとすれば、それはむしろ至極当然、健康な証拠ともいえるのではないかと思います。

むしろ重傷なのは、他人を巻き込んだ形の破滅願望です。これも結局は逃亡願望が根本に存在するのですが、そのサイズが全く違う。例えば、戦争が起こって難民になってしまうという破滅を望む人は、かなりの間苦しい生活を強いられたとしても、今よりはマシだと考えるタイプ。一生現在の日常を捨て去りたい!というのでしょう。期間が長いパターン。

それとは別に、一人で逃げるのが怖いのかもしれません。日常は退屈で苦痛に満ち溢れているとは言え、捨てるにはあまりに価値がありすぎる。食べていくことに事欠くことはないし、良いことが何もない分、悪いことも大してない。何もないことを悪いことだと捉えるとすれば、それは途轍もない苦痛になるのですが、大学がつまらないからといって簡単に辞められるものではないというのと似ているような気もします。

ここでもやはり日常から逃れる正当な理由が欲しい、しかもそれに加えて自分だけ不幸になることが我慢ならないのでしょう。みんなが不幸になってしまえば、自分の不幸はかすんでくる。だから一気にみんなで不幸になることで、一回全てをリセットしてしまおう。そこからの再出発だ。という前向きなのか後ろ向きなのかわからないのが、このタイプかと思われます。

結局、単に臆病なだけで、さらにやる気も無い。そういう人が破滅願望と言うものを抱くのでしょう。でも心のどこかでは本気でその破滅が訪れたら困ると考えているはず。自分からは何も変えようとしない、そういう弱い人間なのです。経験者は語る。

悲劇のヒロインになりたい人も大勢いると思われますが、破滅願望はそれとは違う。破滅願望を持つ人は、前向きでありながらやる気がないという普通の人間。それが普通といえるかは置いておいて、逆に破滅願望を持つ人は安全かもしれません。

要は勇気がないわけですから、大それたことなど出来るはずがない。つまり何も起こらなければ、何もしないので、人畜無害そのもの。毎日を活き活きと一生懸命生きている人ほど、このやる気の無い現実を嘆き、良くも悪くも色々と活動なさるのでしょう。その人たちには世の中を良くしてもらえるよう期待しています。

他力本願の破滅願望者、こんな若者にどんな将来が望めるというのだろうか。わからん・・・