ため息は正義

「ため息をつくと幸せが逃げていく」とよく言われます。幸せなときも(良い意味で)ため息つくじゃないか!という揚げ足取りのひとつもしてみたくなるものですが、まぁため息といえば不幸の象徴なわけです。それも良くわかります。

でも意識してこのかた、一日たりともため息を欠かさずしてきた自分としては、ため息不幸論はイマイチいただけないのです。別に意識してため息をついているわけではなく、無意識に出てしまうのです。もしかしたらこれは無意識のレベルですら不幸なのか・・・とも思わないでもないですが、もし仮にため息をつかずに生活していたとしたら、一体どうなるのか。と考えただけでも恐ろしいです。

ため息をつくことで幸せが逃げていくといいますが、そんな幸せなんていっそのこと逃げてしまうが良いさ!と思うのです。ため息程度で逃げていく幸せなんて、IT社長が苦しくなってきたときに捨てられるのと同じくらいの幸せでしかないのです。そんな幸せを後生大事に抱え込んでいたとしても、近い将来にジリ貧になること間違い無しです。

それならばむしろ、そんな腐乱臭を発しかねない幸せなど一気に捨ててしまって、可能性に満ちた新しい空気で肺を満たすべきではないでしょうか。ため息は不幸になるのではなく、古いものを捨て、新しいものに身を投じる精神の掃除です。

それにそもそも、ため息を日に数え切れないくらいにしている人は、それまで幸せだったのか!と突っ込んだら、きっとため息=悪のイメージを抱いている人は返答に詰まることでしょう。「塵も積もれば山となる」なんていいますが、塵が積もったところで所詮ゴミの山です。処分に手間隙かかります。ゴミはこまめに捨てなくては。

幸せになりたいというのは万人共通永遠のテーマでありますが、その達成の難しいことには舌を巻かされます。決して壮大な幸せを望んでいるのではないのに、平々凡々の生活を望んでいるだけなのに、その達成すら危ぶまれる現代社会というものは、どこか歪んでいるのではないかと思います。別にお金持ちになんてならなくて良い、有名になんてならなくても良い、それよりも19時には家に帰って家族一緒に毎日質素ながらも夕食を共にする方がどれほど豊かなことか・・・

とまぁ、話がずれました。何かの本で「信念は視野を狭くする」という格言を聞いたことがあります。人間というのは、大抵格言というものを好むものですが、これは真実の一面を捉えていると思います。信念は視野を狭くするから信念は持ちません!というのは一種のパラドックスなわけですが・・・

良くある例え話をひとつ・・・「俺は嘘はつかない!」という信念を持った青年がいます。その青年は生まれてこのかた一度たりとも嘘をついたことがありません。しかしある日、親友が重病に倒れ、治療を受けなければ余命半月と診断されてしまいました。その親友は宗教への信仰が厚く、病気も天命であるとして治療を拒否しました。

さて、この青年、知らん顔をして食べ物に薬を混ぜるのか。嘘をつかなければ親友は死んでしまいます。しかし、嘘をつくことはこの青年の信念に反することです。どうする青年・・・!

屁理屈だなぁというのは重々承知しています。しかし、信念というものを頑なに守っていると、それによってがんじがらめになって動けなくなるということも時にはあります。柔軟性というものはある程度は必要なのです。「論語」が一般法則で書かれているのではなく、具体的出来事として記述されているのは、このあたりにその理由があるのではないかと思います。

だいぶ遠回りすることになりましたが、要するに自然体でいたほうが良いということです。「ため息は幸せが逃げていくから絶対にしないぞ!」なんて気張っていると、余計に疲れてしまいます。ため息をつきたくなったら、そんなことは気にせずにつけば良いのです。強がっていても、いつかは崩れます。空手で板は割れても、粘土は割れません。

まぁ、不幸な自分を守っただけになってしまいましたが、防衛機制が働いたということで、いつの日かこの文章を笑い飛ばせる日が来ることを願って止みません。