お上のやることだから大丈夫!

小泉政権以来、日本人の政治に対する姿勢や関心といったものは高まっているように思えますが、しかし一国民が国政のどこまでわかるのかということを考えると、何のために選挙に行くのかわからなくなることがあります。日本ほど経済が巨大化し、それに伴って政治も拡大しているような国において、大学を惰性で出た程度の学力で何がわかるのでしょうか。

国会議員はすごい!と言っているのではありません。元プロレスラーなどの恥知らず国会議員や地方議会議員も多数存在するわけですから、国会議員はむしろ我々一国民に近い性質を持っているのではないかと思います。まぁそれが喜ばしいことだとは思えませんが。とは言いながらも、政治一族といったようなものも当然ながら存在するわけですから、本物の政治力を持った国会議員というのも多数存在するのでしょう。

国民主権を謳っている日本国憲法ですが、実際に国を動かしているのは官僚だと考えています。それは当然のことです。日本国民が一億人以上いるわけですから、直接民主制の実現などは不可能であり、また無意味どころか有害ですらあるでしょう。だから国会議員を選挙で選ぶという間接民主制を採っているわけですが、実際に細かい政治を大臣が一々知ることなどは事実上不可能であり、その大いなる隙間を官僚が埋めているわけです。

その官僚、国家一種の官僚のことですが、彼らの努力は血の滲むものであるでしょう。国家一種に向けた勉強すら一度たりともしたことのない自分としては、どれほど大変なのかということは想像する以外に方法はありません。しかし、天下の東大に入学した秀才達ですら軽々しくパスできないということは、官僚が想像を絶するほどに能力を持っていることになります。

もちろん、国家一種の試験で求められる能力が、全ての職業で求められるわけではないので、一概にすごいということは出来ないでしょう。もしかしたら机上の空論に過ぎないかもしれません。ただ、国を動かす人間を選抜する試験が机上の空論に過ぎないとはちょっと考えにくい。

そのような理由で、仮に官僚はものすごい政治能力を持っているとします。そしてそれを題材にした小説やドラマといったものは多数存在し、またドキュメンタリー番組なども時々放映されています。それらを観たり読んだりしたときに、言いようのない無力感を覚えます。

土曜日の21時にNHKで『ハゲタカ』という番組をやっています。企業の買収などを描いた社会派ドラマなのですが、これが中々面白い。銀行と企業の確執や、銀行の特殊事情、外資系企業の苦労などなど、マスコミから伝えられている外面だけでは決して知ることの出来ない一面が描かれています。外資系企業戦士や銀行員というものは優雅に見えますが、実際には血で血を洗うような熾烈な戦いを強いられているようです。

あるいは、先日最終回を迎えたらしい『華麗なる一族』もあります。財閥系企業に巣食う不正や怨念というものが見事に描かれていると思います。自分はドラマを観たのではなく、本を読んでいるのですが、その方が細かい面が描かれていてよくわかるような気がします。そこでも同様に、企業戦士の内面や政治との微妙な関係などの気にしていなければほとんど見ることの出来ない面がよく現れています。

そのような小説やドラマでは、当然ながら専門用語をはじめとして、様々な原則や暗黙のルールなどといった普段その道を歩んでいなければ決して知ることの無い物事が多数登場します。あくまでフィクションですから、もしかしたら現実はもっと軽いものかもしれませんし、逆にもっと複雑かもしれません。自分は現実はもっと複雑だと思いますが。

『ハゲタカ』も『華麗なる一族』も財界を題材にしたものですから、経済に強くない人からすれば、わからないことだらけです。自分も文学部ですから、経済に関しては高校の政経以上の知識は持ち合わせていません。高校の政経の知識など、それこそ机上の空論で、学校社会を出てしまえば何の役にも立たないのではないかと思います。しかし、経済学や政治学というものは高校政経を理解することが前提ですから、間接的には役に立つわけですが・・・

「専門ではないからわからなくて当然だ」と開き直ったとしましょう。それも一理あります。では、仮に自分が政治経済学部で経済学や政治学を修めることが出来たとします。政治・経済系の小説を読んでもほとんど理解することが出来るとします。

しかし、それでも自分には出来ないことがたくさんありすぎるのです。それは学校で教えてくれることではありません。無理やり定義するならば、心理学の範疇になるのでしょうか、人間関係や言葉の使い方といった部分です。

人間というものは、特に日本人は、ビジネスの場において正直に話をするものではありません。それは必ずしも敵性の相手に対してのみならず、時には味方や身内に対してすら心内を偽ることがあります。特に経済界においては自らの利益を最優先しなくてはならないため、相手に対して「自社の利益を上げたいんだ!」というわけには行きませんが、それは当然のことでしょう。とすれば、敵ならば当然のこと、味方としての相手から正直な感想を引き出すことが経済においては重要なことになります。

では、どうしたら相手から正直な感想や戦略を聞きだせるのでしょうか。それにはマニュアルといったものは存在しません。相手は企業を代表するとは言え、一人ひとりの性質を持った人間ですから、その人となりに合わせて対応を変えていく必要があるからです。さらに相手が官僚か銀行員か技術者か報道関係者かといった違いでも大きく話は変わります。

そのような対応の仕方が自分には絶対にわからないと思うのです。そしてそれが上手くできない人間に、上に上り詰めることなど出来ません。経済の巨大化や情報化によって迅速な対応が求められる現代社会において、正確な情報を仕入れることは何よりも重要だというのに、それをやる能力が無い。社交性が無いとかそういうのとは違います。性格ではなく能力です。本当の頭の良さというものはそういった類かもしれません。

また、政治・経済系の小説には、必ずと言って良いほどに料亭が登場します。接待であったり、秘密の会談であったりするときに使用される場が料亭でありますが、料亭はただ料理を出すだけではなく、芸者が登場します。その芸者達の能力も一流です。彼女達の能力は空気を読む能力と言えるでしょうか。どのタイミングで登場し、どこで引き下がり、どこまで相手との関係を許すのか・・・それらを適宜対応できる芸者が生き残ります。

その芸者の能力も自分には無いと思います。芸者としての能力があるというのは、生きていく上で非常に重要なことだと思います。空気が読めない人間というのは、どこまで行っても一定以上の成果を残すことは出来ないでしょう。一人で仕事が出来るわけではないのですから、官僚や企業社会に所属している以上、空気が読めなくては何も出来ないのです。その点、芸術家などはちょっと違ってきます。

現場で叩き上げれば、誰でもそんな能力が身につくのだなどとは全く思えません。天賦の能力を現場で叩き上げて鋭くすることは出来るでしょうが、存在しないものを叩くことなど出来ません。そういった意味で、自分は政治家や企業トップ、トップ官僚といった人々は天職であると思っています。さらに多くの国民の生活に関連した職業なわけですから、いくら職業に貴賎はないとはいえ、どこか一段違っているように思えます。

そう考えてしまうと、何のために選挙に行くのだろうかと思います。確かに選挙制度は絶対に必要です。選挙が無ければ、政治家や企業や官僚は自己の利益に走ってしまうでしょう。その抑止力としての選挙制度は軽んじることは出来ないのです。ただ、細かい点がわからない我々国民は、何も出来ない。国民はブレーキであってアクセルではないのです。

そう思って、無力感に襲われ、自分の無能さが悔しくなります。官僚になりたいと強くは思いませんが、なれないのは悔しい。悔しくてもどうしようもない。それが哀しい。しかしどうしようもない。だから、自分に出来ることを頑張ります。自分にある数少ない能力を生かせるようにしたい。ネガティブな考え方ではありますが、一生懸命やる理由としては十分すぎます。大学院入試まで残り一年となりましたが、今はまず、その試験に向けて勉強することが必要です。そろそろ惰性の大学生は辞めて、本当の大学生になりたいと思います。