日和見菌になりたい

今、バイト先が大きく揺れています。この季節になると、大学生の中には大学院進学や就職といったある意味人生の決定機といえる時期を迎える人がいます。自分はまだ(たぶん)来年3年なので、そういった類のことはないのですが、バイト先では7人ほど進学・就職で退職する人がいます。

塾にとって、春期講習は稼ぎ時です。新学期、新学年に備えて、心配な親は塾に通わせるかどうかで揺れていることと思います。とりあえず春期講習だけ試してみて、良かったらそのまま4月から通わせよう。そんな風に考える方が多いようです。だから、講習、特に春期講習はいつもに増して気合を入れていかなくてはなりません。

しかし、春期講習で普段よりも授業が増えるのに対し、EI光ゼミナールのように大学生講師が多数在籍し、授業の主力となっているような塾にとっては、塾講師数が一気に減ってしまう時期でもあります。退職される大学生講師の方々の持っていた生徒の引継ぎや代講などがあって、てんやわんやです。それでなくても、大学生にとっては春休みは遊び時なので、旅行などにも行きたいわけです、人によっては教習所に通う人もいるでしょう。だから退職しない大学生講師も忙しいのです。バイトのためにバイトをしているわけではないので。

大学生講師の大量退職×在籍大学生講師の忙しさ×授業のコマ数の増加=?

となれば、結果は見えみえなわけです。要は運営に行き詰まり、どこかで誰かがその尻拭いをしなくてはならない。遊びに行かずに代講に入る、あるいは社員の方々が休日を犠牲にして出勤する、必死に授業を振り替えて何とか予定にあわせるなどなど・・・ということは、この忙しい中で、単純なミスなどは許されないのです。ミスの連発は塾の経営に直接的に響いてきます。大学生講師と社員が、時には生徒も含めて、一致団結しなくてはならないのです。EI光ゼミナールのように、一教室が小さい塾はそうでもしないと潰されてしまいます。

しかし、どうも我が神楽坂校はそれが上手く行っていないようです。2年近くもバイトをしていて、今更ながら気付かされました。社員と大学生講師の溝や、大学生講師同士の溝、生徒との確執などなど、問題はどうやら表面化はしていませんが、山積みのようです。社員と大学生講師の問題や大学生講師同士の問題というのは、基本的に(良い意味でも悪い意味でも)大人の問題ですから、それを表立って批判するといったことはありません。これは日本人の特質かもしれませんが・・・

若い社員の先生がいます。その人(以下Sさん)は個別指導の管理責任者なので、個別指導の書類の処理や授業の設定などは基本的にSさん任せになります、というかそれが仕事です。Sさんは社員なわけですから、バイト講師よりも仕事は多いし、それにしっかりしていなくてはいけない。社会を知らないバイト講師を引っ張り、生徒を管理する立場です。EI光ゼミナールの半分くらいは個別指導が売りなので、かなり重要な地位にいます。

Sさんはそれを認識してなのか、それとも社員のプライドなのかはわかりませんが、バイト講師にあまり仕事をさせません。といってもそれ自体は決して悪いことではなく、授業以外の仕事を自ら引き受けて余計なことをバイト講師にさせないようにしているという意味です。例えば、代講を探す仕事だったり、保護者への連絡であったり、プリントの整理などの事務的な仕事です。事務的な仕事は会社には欠かすことは出来ないので、それも授業と同等の重要な仕事です。

その重要な仕事を一手に引き受けてくれることは非常にありがたいことです。バイト講師からすれば、授業以外のことに煩わされることなく、授業の準備に専念できます。まぁ、正直に言えば、給与にならない仕事をしなくて良いわけです。ただ働きをしたいと思う人はいないでしょう。当然と言えば当然ですが、それには感謝しています。

が、そんなに上手く回らないのが世の中の常なのでしょうか。どうもこのSさんは事務的な仕事をいい加減にしてしまうことがあります。意識的に適当にやっているのではなく、引き受けた仕事を忘れてしまうのですが、結果としてはいい加減に仕事をしていることになります。例えば、出勤簿の入力を忘れていたり、春期講習のテキストを注文し忘れるなど・・・塾にテキストが届かなかったら、どうやって授業をしろというのでしょう。

根本的な部分の問題です。社員がどうだとかバイト講師がどうだとかそんなちゃちな問題ではありません。バイト講師に置き換えれば、「すいません、今日授業あること忘れていました」と言っているようなものです。

仮に百歩譲って、「忘れてしまったものは仕方ない、人間誰しも忘れることはあるさ」ということにしましょう。確かに重要なことを聞き逃したり、忘れた経験は誰にでもあります。頻度の問題ではありますが・・・それでも問題なのは、見るに見かねた熟練のバイト講師(勤務3年以上)が「手伝いましょうか」と言ったにも関わらず、それを断ったということです。

これは恐らく、社員のプライドなのでしょう。確かに社員とバイトでは格が違います。社員はバイトを管理する立場であり、一般的な会社で言う上司です。仕事の出来ない上司を助けるために、部下が「手伝います」と言ってきたときに、「おぉ、ありがとう!助かるよ!」と何の抵抗もなく受け入れることが出来る上司は少ないのではないでしょうか。

さらに千歩譲って、そのプライドも認めたとしても、それでもどうしようもない問題は存在します。それはプライドのために自ら掻きいれた仕事をやっていないという事実です。結局、全ては最初の問題に集約されます。「仕事をしていない」、それだけです。それがバイト講師から見てもわかるのですから、かなりひどい段階に来ているのでしょう。バイト講師の間でも不満が高まっています。自分は個別の授業がないので、あまり関係がないのですが・・・

そんなSさんを注意するべきなのは、もう一人の社員である塾長です。塾長はその肩書きの通り、塾の長ですからSさんも含んだ塾全体を管理する立場です。Sさんが仕事を十分にしていないのであれば、本来は厳重に注意しなくてはなりません。バイト講師が社員に対して、「何をしているんだ!」というのは日本の伝統的企業封建社会的発想や、あるいは「社員の仕事に関してはよくわからない」という点からして、難しいのです。悪しき日本の伝統でしょう・・・

外資のイメージのように"Fire"で済めばいいのですが、そんな風にはなりません。注意すべき塾長は、立場的配慮から(そんなものは不必要であるにもかかわらず)あまり厳重に注意はしません。それよりもSさんの事務の尻拭いをしているのです。これではいつまで経っても、Sさんは何も変わりません。

そんなSさんにバイト講師が下す評価は「使えない」ということです。正直に言って、確かに使える(というのも傲慢だとは感じますが)とは言い難い。自分も軽微ながら幾度となく色々な被害を受けたことがあります。それについて全く何も思っていないかと言われれば、思っていないとは言えない。

しかし、それでも、決してSさんは悪い人ではないのです。仕事に対して結果として熱心でなかったとしても、人間自体は悪い人ではないと思っています。それはバイト講師の多くもそうなのだと思います。社員であるから、必要以上に生徒から敬遠されるきらいがあり、保護者からの理不尽なクレームに対応しなくてはならないことを考えると、たとえそれを仕事に選んでしまった責任が本人にあるとしても、無下には出来ません。

本来ならば、仕事とプライベートは区別して考えなくてはなりません。私事を仕事場に持ち込んだり、悪い意味で仕事を私生活に持ち込むことは決して良いこととは言えない。公私混同することは本人がどうなると言うよりも、周りに迷惑をかけることが多々あります。だから分けなくてはならない。仕事のイライラを家庭に持ち込んだりしたときに、本人以上に家族は辛い目を見ることにもなりかねません。

嫌いにはなれない。それが被害を受けながらも、自分がどうしても表立って批判できない理由かもしれません。今まで20年間生きてきて、嫌いな人間はたくさんいました。人間の好き嫌いに関しては、高校まではかなり激しかったと思います。今でも知らない人に関しては、勝手に白黒をはっきりとつけてしまう癖があります。ただ、身近な人を大きな理由なく嫌うことは出来なくなりました。その点が心に引っかかります。批判と悪口が全くの別物であることくらいはわかっていても、それをどこで言うのか、どのように批判するのかということが気に掛かります。

だから、陰での批判は少なくともやり過ごそうと決めました。批判と言うものは、人間である以上出て当たり前です。それはどうしようもないことだと思います。完璧な人間が存在しないのがその理由です。しかし、その批判でも、陰で言われれば、性質上限りなく悪口に近くなります。今まで散々人の悪口を言っておきながらいまさら・・・といわれるかもしれませんが、本気の悪口を言ったのはそれほど多くはないと思います。悪意を持って、その人の評判を下げさせる目的でしゃべったことは記憶にありません。

大学生になってから、心が鈍くなりました。それはプラスの面もあり、マイナスの面もあります。良く捉えれば強くなりました。大概のショックは耐えられるようになり、あまり哀しみを感じなくなったと思います。悪く言えば、人間として無機質になった気がします。感情の揺れが激しすぎることも問題ではありますが、揺らがないと言うのもなかなか考え物です。鈍くなった感情の中でも、特に他の人から来る傷つくような情報に対して免疫が出来たと思います。他の人と比べればどうかと言われると、わかりませんが。

小学生から高校生まで、自分は人からどう思われているのかと言うことが常に気がかりでした。その日一日がどれほど楽しい一日であったとしても、仲間と別れてしまえば何を話しているのかわからない、もしかしたら陰で笑われているのかもしれない。そんな根拠のない不安が頭の片隅にいつも残っていました。それは必ずしも仲間を信じていなかったと言うこととは同じではありません。本能的な性質と言っても良い状態でした。それが小学生のときはひどかった。校門を出るまでは良い。そこから家に帰るまで、友達が一緒じゃないときはいつも不安だった。

なぜなら自分も誰かの陰口を言ったことがあったからです。それが自分に応用されたとしても何の不思議もありません。そんなことをどれほど心配したところで、どうしようもないことくらいはわかっていましたが、どうしても怖かった。今から考えると実に弱弱しく、馬鹿げたことだと思いますが、ほんの数年前まで深刻な悩みだったのです。

陰での批判と言うものは、ある意味では悪口以上に悪質なものであると言えるかもしれません。悪口は悪口と割り切ることが出来、もたらされる情報は大いに脚色されている可能性があることくらいはわかります。しかし、陰での批判と言うものは真剣そのものであり、話される内容は限りなく事実に近いものがある。それが事実であり、態度が真剣だからこそ、逆に批判以上の悪いイメージを聞かされた人は持ってしまうと言うこともあるでしょう。そうなれば、その気持ちが細かい行動に現れてしまうのは当たり前です。純粋は決して善ではないことを、むしろ悪であることを三島由紀夫は見事に描きましたが、それに近いものがあるのかもしれません。

陰での批判はしない。これだけ書いていると、正しい姿勢のように思われるでしょうか。実際、正しい姿勢だと思います。ただ、集団の中でそれを実施しようとすると、そう簡単にはいかないでしょう。陰での批判と言うものは、その悪性が認識されない限り、本音の出し合いになります。そこで「陰では批判しない」という態度を貫くとすると、本音を話さず、きれいごとを並び立てているように見えることがあります。良い子ぶっていると思われても仕方ないでしょう。

だからこそ、少なくとも今の塾においては、極力他者批判からは逃げようと思います。間違いなく「逃げ」です。正しいことをしているわけでもありません。現実から目をそらしているとも言えるでしょう。ただ、Sさんに関しては自分が傷ついてまでも批判したくありません。公私混同も来るところまで来たなという気がしないでもないですが、これはきっと一生付きまとってくる問題になるでしょう。

そもそも、職業と言うものは人生の最も重要な目標のひとつです。それほど重要なものに、自分の考えを含ませないことは、自分には出来そうにありません。今はただのバイトではありますが、かなり将来の姿に近いのですから、将来を想定して行動しなくてはならないと思っています。自分の身を守るために日和見の態度をあえて取るのもひとつの道ではないでしょうか。そう思うようになってきました。