拝啓、ウォーラーステイン

今、日本中が「格差」「格差」と大騒ぎしている。政治舞台から出版、世間話まで「格差」病に犯されているんじゃないかというくらいに感じられるが、実際のところそれほど明確なデータが頻繁に示されているとは思えない。今書いたように、自分としてはこの「格差」問題に懐疑的な意見を抱いているわけだが、そもそも何の「格差」なのかということが示されていない。

情報環境における格差や所得に関する格差など様々な「格差」があるが、恐らく問題とされている「格差」の根本的な問題は所得格差だろう。結果の格差だ。所得格差であれば、データが示しやすく、誰にでもわかりやすい話だ。本当にそれほどまでに格差があるかどうかはわからないが、まぁ問題扱いされても不思議ではない。

仮に、所得格差が激しいとして話を進めることにする。では、一般的に考えて、どうすれば所得が多くなるのだろうか。要するにいわゆる所得における「勝ち組」になるにはどうしたら良いのかということである。

単純に考えて、大学を出ることは必須条件になるだろう。個人の才能を生かして、個人事業で稼ぐことももちろん可能であるが、全員が全員特別な才能があるわけではなく、特に自分にはそんな才能があるとは思えない。となると、一流企業に就職して、高い所得を得ることが恐らく最も確実な道だ。だから大学卒業は必須条件になる。

さらに、大学と一口で言ってしまっても、大学の種類からそのレベルまで様々だ。美大や音大などは特殊なので、この場合は除外するとして、一般大学で考えれば、東大・京大・旧帝・一橋・東工大、そして早慶が非常に有利な立場にあると言えるだろう。その中でも関東であれば東大の力は圧倒的である。ドラゴン桜ではないが、東大に行くことが「勝ち組」への近道だろう。東大までの道は果てしなく遠いのであるが・・・

とすると、東大に入るにはどうしたら良いのか。当然勉強するしかない。それもとんでもない量を。一人で東大レベルの勉強をするのは事実上不可能であるから、東大対応の教育環境を整える必要がある。それは学校であるかもしれないし、予備校であるかもしれないし、もしかしたら家庭かもしれない。出来ればそれら全てをそろえたいところだが。

ただ、環境を整えるだけで合格できるほど東大は甘くない。何よりも必要なのは、自分から勉強する姿勢である。やる気なくして合格はありえない。では、やる気を出すにはどうしたら良いのかということになるが、それはやりたいことを見つけることである。あるいは東大というブランドに憧れるだけでも良いが、それだけであの勉強量をやり遂げるのは少々難しいのではないだろうか。

つまり、逆算である。ここまでの内容をまとめてみると、

所得格差で「勝ち組」になる
  ↑
一流企業に就職する
  ↑
東大(一流大学)に進学する
  ↑
やる気を出す+良い教育環境
  ↑
やりたいことを見つける

ということになる。またまた同じ論理で、やりたいことを見つけるにはどうしたら良いのかということになるが、それはどれだけたくさんの体験を出来るかということにかかってくるだろう。もしかしたら何か特別な才能があるかも知れないが、その才能が発見されないと何の役にも立たない。何の才能があるのか、何が好きなのか、それを知るためにたくさんの経験が必要だ。運動、勉強、旅行・・・たくさんある。

ここからが問題である。たくさんの経験を積むためには、何が必要なのか。それが、金なのである。現代日本社会において、「タダ」で経験できることというものは非常に限られてきている。人間関係やスポーツなどはそれほど金がかからずに経験することが出来るが、それらが直接職業になる率というのはかなり低い。旅行に行くにも金がかかり、面白い本をたくさんそろえてやるのも金がかかり、どこかに連れて行ってやるにも金がかかる。自分としては、そのような用途に自分で稼いだ金を使えるのは喜びだけれども。

当然のことながら、金のかからない貴重な体験とはたくさんある。しかし、それではかなり範囲が限定されてしまう。教養を持つためには、現実的に考えて資金力が必要なのである。「蛍雪の功」が通用するのは遥か昔、今では困難になってしまった。

豊かになるには金がかかるというのは、嫌だけれども真理ではないかと思う。東大に通っている学生の家庭が圧倒的に裕福かというとそうではないかもしれないが、開成や筑駒などの超進学校からの進学者がそれなりにいるということは、やはり子どもを私立中高に行かせることが出来る経済力がある証拠だ。

そう考えると、格差社会というものは現在どうかというのは別として避けられないものではないかと思う。資本主義が進展するにつれて、社会権の考え方が発達してきたが、もはやこれからは社会権社会保障制度だけでカバーできる程度の格差ではなくなってくるのではないだろうか。

じゃあ給料を上げれば良いじゃないかなんて単純な話ではない。給料が増えるということは、会社の利益が減ることであり、長期的に見れば会社の発展、それに基づいた社会の発展を阻害する可能性はないのだろうか。

もう「頑張ってないから貧しいんだ」という19世紀的発想は通用しないと思う。責任がないのに貧しくなる時代がやってくる。可能性が連鎖的に拡大、あるいは縮小していくことになる。そこに関与できなくなってしまったとしたら、それは見えない身分制の始まりであり、ゆゆしき事態といえるだろう。

縄文時代が平等な時代であったのに、稲作が始まった弥生時代には身分制と戦争が始まった。稲作という社会的な発展が、人間に富をもたらしたが同時にある種の貧しさをもたらした。歴史は繰り返すというが、まさにその構図が再び出てきているのかもしれない。

格差をどうしたら良いか、ということを考えるのは自分の役割ではない。今、とりあえず必要なのは、将来的に拡大していく格差の中で、どうやって、どれほど上位に食い込んでいくかということだ。かといって、金に魂を売って、やりたいことをやらずに・・・なんていうとせっかく一回しかない人生を無駄に過ごしてしまうことになる。上位に食い込むことで下位を見下すことに喜びを感じるという虚しい人は違うかもしれないが。

夢を達成することや自己実現ということは、人生の最大の目標といえるが、それには経済力が必要だとすれば、そのバランスを見つけることが大切だ。格差、格差と騒ぐ周囲に翻弄されることなく、大切なことを見つけ、現状を認識すること。与えられた情報をそのまま受け入れるのではなく、その中から自分にとって必要な情報を見分け、取り出さなければならない。

結局は、情報の授業で最初に習うルールに従っていくだけだ。疑うことは場合によっては悪いことではない。人生に金は無くてはならないものだというと、ひどく物悲しい気がしないではないが、それも現実。世界トップの豊かな生活を送る代償だと思えば、悪い話ではないか・・・とも思う。物理的豊かさと人間的豊かさというのは、定量が決まっているのだろうか。それもまた、虚しくなる話だ。

どうも話を大きくしてしまうのが、自分の良くない癖らしい。とりあえず、今言えることは、今の自分は確実に、物理的にも人間的にも豊かではないということだけだろう。それが一番、哀しいことだ。