宇宙と鳥と遺跡

地元の本屋で「プラネテス」を買った。廣瀬から「デブリを拾う話だよ」と聞かされていただけだったので、正直それほど期待はしていなかったのだけれど、暇なので金欠にもめげずに買ってみた。そして電車内で1巻を読んだ。

これが実に面白い。自調自考論文で、文系にもかかわらず「人類の宇宙進出」について書くことにした自分は、そもそも宇宙の話が大好きなのです。確実な「未知」がそこには存在するということが興味を掻き立てるのかもしれない。高校地学を勉強していたときも、宇宙の分野は一番楽しかった。連星の計算だとかは今ではもう出来なくなってしまったけれど、歴史と同じくらいにときめいた勉強だったと思う。

プラネテス」は未来の話なので、人類が日常的に宇宙空間に進出している。その中での最先端は木星への人類派遣計画だ。ヘリウム3を利用した核融合エンジンを積み込んだ木星探索船が造られ、計画が行われる。主人公はその乗組員に志願するわけだが、自分が興味があるのは乗組員よりも、その建造者のほうだ。木星に初めて到達するのは建造者ではないが、真の立役者は建造者なんじゃないかと思う。

間接的にではあるが、未知や困難に挑んでいく姿というものは美しく、人を惹きつけるものがある。プロジェクトXのようなものだ。それは人体の内部に挑んでいくのもそうであるし、地球の外に向かうこともあれば、地球の内に向かっていくこともある。そしてそこで求められるのは、文系の技術ではなく、理系の技術なのである。考えるまでもなく当たり前のことだ。宇宙開発において、歴史学者は何の役にも立たないだろう。

理系の技術と言うものは、人類の進歩に直接貢献するものだ。そして文系の技術と言うものは、その進歩の方向や進度を管理するものである。文系が上手くコントロールすることが出来なければ、人類の進歩が逆に著しい退歩を招くことになるかもしれない。核兵器の開発のように。そういった意味で、文系の管理と言うものを欠かすことは出来ないのだが、しかしそれは進歩自体ではない。それが無性に悔しく感じられ、文系に進んだことを後悔する事がある。

といったように、いまさらながら自分の将来をあまりに簡単に決めすぎたことを後悔しても、もうどうしようもないことだ。もちろん、勇気を振り絞って現在の立場を捨てて、新たに理系転向するという方法もあるにはあるのだが、そんな勇気はないし、それほどまでに現在選んだ道がつまらないと言うわけでもない。

何日か前の新聞に、日大の教授が専門外である航空力学(?)分野で偉業を成し遂げたという記事があった。具体的には、鳥型の大型飛行機を飛ばせたという。大型といっても、人間よりも小さいサイズで、ラジコンなのであるが、これには物凄い衝撃を受けた。航空力学なんて皆目分からないのだが、常識的に考えて飛ばないだろう…というような飛行機を飛ばせてしまったのだ。しかも専門外と言うのがショックだった。もちろん、良い意味で。

「好きこそものの上手なれ」というが、まさにその通りだ。これまで自分はあまりに「専門」という言葉に縛られすぎていた気がする。確かに、専門でなければ成功を収めることは難しい。しかし、可能性が低いだけだ。学会で発表することも出来ないだろうし、大げさに取り上げられることもない。しかし、やりもしないで(あぁ・・・あれをやっておけば良かったなぁ・・・)なんて後悔するよりもはるかに良い。

知りたいのであれば「ニュートン」でも買って読めば良い。それだけでもかなり違ってくるはずだ。ただ、そこでは、知的興奮と同時に一種の虚しさを感じることになるのではないかと思う。これは高校地学をやっていた時からずっと感じていたのだが、どうしても手に入らないものを望んでいることに対する虚しさだ。どれほど惑星について勉強して、天体望遠鏡で惑星を観測していても、実際に行ってみることは出来ないし、近くで見ることすら叶わない。宇宙の外側には何があるのだろう、木星型惑星はガスで出来ているというけれど実際に降りたらどうなるのか、ブラックホールは光すら飲み込むってどういう意味だろう、宇宙人はいるのだろうか・・・そんな疑問は尽きることがない。でも、決して生きているうちに答えなど出ない。じゃあ、どうして考えているんだろう。

そんな虚しさがある。考えても考えても考えても分からない。研究第一人者なら分かるかもしれないが、一般人の趣味の範囲では絶対に分からない。その差は大きい。未知に対して本職で取り組んでいる人との差は、決して無くなることはないのだ。

では、自分の道ではどうなのか。自分は小学生のときから歴史学に進むことを決めていた。歴史学の何が面白かったのかを明確に説明することが出来ないが、本当に好きなものと言うのは、好きな理由などはないのではないかと思う。これは勉強だけではなくて、好きなものすべてに当てはまる話だと思う。人間も含めてだ。

相沢忠洋は、日本に旧石器時代が存在したことを証明した。聖徳太子はいなかったかもしれない。織田信長暗殺には豊臣秀吉が絡んでいるかもしれない。これまで学校で教えられてきた歴史とは異なった調査結果が近年どんどん発見されている。教科書に絶対の事実のように書かれている歴史は、いくらでも変わりうる可能性がある。まだまだ歴史には「未知」がたくさん存在することをすっかり忘れていたようだ。だったら、その「未知」を暴いてやれば良い。

自分は、隣の芝ばかり見ていたようだ。隣の芝の青さ加減を羨んでばかりいて、自分の庭がどうなっているかということを考えすらしなかった。それに気付かせてくれたのが、「プラネテス」であり鳥型飛行機だった。これまで見えてこなかった進路が本格的に見えてきた。漠然としていたやりたかったこともハッキリしてきた。

日本史で「未知」が多いのはどこかと考えると、単純に古い時代になればなるほど「未知」は増えるのだ。記録も文献もいい加減になってくるし、まだまだ見つかっていないこともたくさんある。これまで進もうと考えていた近代史は、まだまだ多くの謎が残るものの、他の時代に比べれば、信頼性の高い記録が数多く残り、解釈学になっていることも多い。歴史を揺るがすような新発見というものは、見つかりにくいだろう。だから、自分は古代史に進むことにした。

学士の分際で歴史を揺らすことなどは恐らく出来ないだろうが、修士・博士になれば少しは変わってくると思う。教師という道に進む気持ちはまだまだあるが、博士に進みたい気持ちも強くなってきた。これまでとは違って、自ら歴史を切り開いていきたいと思った。本気で勉強しよう。結果を残そう。そういう気持ちにようやくなることが出来た。人を羨んでいた時間を、これからは自分の勉強に変えていこう。