いつも新宿で見ていた夢

新宿によく行くようになったのは、高校3年生になってからだった。部活も春の大会と練習大会のようなものも終わりを告げ、本格的な受験体制に入った頃だ。当時、予備校はZ会の新宿校に通っていた。Z会を選んだ理由は、たまたま綱島で出会った小学校時代の友人に薦められたからで、全く調べたりすることはなかった。国語は恵比寿校で、英語と日本史と数学は新宿校で受けていた。

と言っても、それほど切羽詰って勉強していたわけではなかった。学校は午後の授業が選択制だったので、Z会で授業が始まるまで結構な時間があいていて、図書室で遊んでいたり、体育のあとにシャワーを浴びていたり、ちょっと早めに新宿か代々木に行って喋っていたりした。今考えると実に受験生らしからぬ生活をしていたのかもしれない。

そんな風にして、自分の行動範囲に新宿は加わっていき、Z会の授業前後の憂鬱な時間を、電車を待ちながら過ごしていくことになっていた。受験と言うことに、それほど追い込まれていたわけではないけれど、縛られているという感覚くらいならあったのかもしれない。

新宿は、多くの電車が駅を置いている。山手線、埼京線総武線、中央線、小田急線、京王線・・・そして、それぞれの地方へ向かう特急が停車していた。原宿から乗った山手線を新宿で降りると、透明な壁をはさんで小田急線のホームが見える。そこには大抵、ロマンスカーが止まっていた。

ロマンスカーは箱根行きだ。あの特徴的なスタイルに赤いラインは、小さいときからの憧れだった。幼稚園のときに、近所の友達と一緒にみんなで箱根に行った記憶がある。それ以来、ロマンスカーは眺める対象になった。無性に乗りたくて仕方なかった。

Z会の授業も、23時過ぎに家に帰ってからの夕食と勉強も、明日の学校の準備もすべて新宿駅に残して、どこか知らない土地へ行きたかった。そんなことを、新宿駅で電車を待つ間、ボーっと考えていた。今では新宿は、現実の場所で、買い物にやってくるくらいになった。

予定もなく、突然、何もかもをいい加減に残して、誰にも連絡することなく、知らない土地へ行ってみたい。そのときはずっとそうだった。今でも逃避願望は強いけれども、その頃は無意識にそう思っていた。その頃の新宿駅を思い出してみると、霧掛かっていて、ぼんやりと電車に並ぶ人が見える。広告の壁の奥にはロマンスカーがあった。








何の予定もない、目的もない、目標もない旅というものを、昨日ようやく体験することが出来た。高校3年生以来の人生の10分の1をかけた長年の夢を果たすことがついに出来たのだ。もちろん、現実と言うものは夢ほど甘美なものではない。夢に賭けた分のつけというものは、どうやら現実世界において跳ね返ってくるものらしい。特に財布の中身に関して。しかし、夢を手にした満足感が金で買えるのであれば、安いものだと思う。








昨日は、バイト仲間と新宿に映画を観に行った。一人の講師が塾内の懸賞的なものに見事当選し、『それでもぼくはやってない』のタダ券2枚を手にしたのである。それを目にしたまた別の講師が、半強制的にそのうち一枚をせしめ、それを自分ともう一人の講師で合わせて3人で分けて安く観ようという計画を立て、実行に移した。大学生1枚1500円だとして、一人頭500円の割引と同じようなものだ。わざわざ大スクリーンで見る内容ではないとは思ったが、別に大した予定もなかったので、喜んで加えさせてもらうことにした。

映画の内容は、個人的な意味で革新的であったが、それについては折々暇があれば書いていくことにしよう。とりあえず、「裁判官も人間なんだ」「裁判は神の裁きではない」というよくよく考えれば当たり前のことを、新たに発見したような気がする。少し、裁判に夢を見すぎていたようだ。冤罪がどうこうというよりも、余程衝撃は大きかった。そして、裁判員制度が始まったら、真面目に取り組もうと思った。

映画を観た後は、特に予定もなかったので、西部内にあるスタバで一休みし、そこにまた新たな講師仲間一人が加わり、合計5人になった。1時間くらいだろうか、色々と話した後、「さて、どうするか」ということになった。当たり前だ。

そこで24歳大学6年生のリーダー的存在の講師が(と言っても入塾は遅いのだけれど)、「遠くに行きたい」と言い、流れで「どこか遠くに行こう!」ということになった。この流れは決して不自然なことではないし、幾度となく経験してきた流れだ。どうせこのまま「行きたいな〜でも金も時間もないしな〜」と言う風になって、「いつか行く!」の社交辞令を交わして終わるだろう、そう思うのが普通だし、現にそう思った。

北は仙台から南は鎌倉までいくつも候補は上がったものの、よくわからないまま混み合ってきたスタバを後にした。全員早大生なので、翌日忙しい常識氏らずの最年少講師が帰り、残ったのは自分を含めて4人になった。ちなみに年齢は上から順に、24(6年男)、22(3年女)、21(3年男)、20(自分)である。自然なような気もしないでもないようなそうでもないようなといったような感じだ。でも結構面白くて良い。

(帰って明日のプリント作らないとなぁ・・・)とボーっと歩きながら考えていた自分の耳に、思いもかけない言葉が飛び込んできた。







「犬吠崎に行こう!」







「じゃあ、馬場でレンタルするかー」「みんな明日はどうなの?」「俺授業ないよー」「CDないじゃん」「馬場のツタヤで借りてけばいいじゃん」「なるほど、さてはIQ200だね?」








あれ・・・?行くんですか?もしかして本気で行くんですか?本気ですか・・・?








やったー!まさかこんなところで夢が叶ってしまうとは!いやいや、今日は実に良い日だ。たまたま財布は満ちているし、明日は午後からだから、朝帰れば大丈夫。これほどの好条件に恵まれるチャンスなんてそうそうないだろう。この機会を逃すのはあまりに惜しい。

というわけで、17時半頃、無事に車を借りることに成功し、暇な塾講師たちは犬吠崎へと向かうことになった。一瞬、室戸岬と間違い、かなり焦ったが、テンションの高さゆえ(それもありか・・・?)などとわけのわからないことを考え出す始末であった。ちなみに犬吠崎とは利根川の終わり、つまり銚子の先端ということになる。一応千葉県であるし、東京からであればそれほど苦労なく行けるだろうと思われた。

高田馬場からおよそ4時間。思ったよりも遠かったような気もしないでもないが、断然行ける距離ではある。到着予定時刻が9時半くらいであったが、途中で夕飯を食べたりすれば、日付が変わるくらいに到着することになるだろう。そこで日の出を待ち、日の出を観測した後に帰れば、10時半くらいには馬場に戻ってくることが出来るだろう。そこから実家に戻ってプリントを作ったとしても、ある程度の時間的余裕はあるはずだ。計画とは立てているうちが華である。到着してから日の出までのおよそ6時間何をするかは全く決めていなかったが、それも暇を持て余す学生らしくて良いかもしれない。

ただ、唯一の問題は、4人中免許があるのが1人しかいないことだった。100km以上の道のりを一人で4時間以上運転し、徹夜の後眠りを抑えて無事故で馬場に戻ってこなければならない。そこだけが心配だった。運転の講師は彼は彼で「東京で運転したことない、怖いよ〜」というこちらが怖くなる発言をしていたが、ここまで来て引くわけには行かない。こうやって死んでいった若人たちが何人いたのだろう。

スタートは順調そのものだった。車にナビがついていたのが幸運し、それほど道を間違えずに来ることが出来たので、とりあえず運転講師の地元である松戸で休むことになった。デニーズで夕食を取り、彼の実家に少しよって(と言っても彼が荷物を取りに行っただけだが)、再び一路犬吠崎を目指した。ここからが本番だ。

松戸からは約85kmだった。そのうち44kmの直線道路があったことは、非常に我々を驚かせた。利根川に沿っていけば、いつかは犬吠崎に着くのであるが、利根川がこれほどまでに広く大きな川で、長いとは思わなかった。どれほど授業中に「利根川は流域面積が日本一だよ」と教えていても、本物を前にすると驚くものだ。百聞は一見にしかずとはまさにこのことである。やはり目で見て実際に体験することほど良い勉強はないようだ。

それから、夜がこれほど暗いものであることを久々に感じさせられた。周りは東京のように余計な明かりなどなく、何百メートルかおきに街灯があるだけだ。畦道の中にある街灯というのは言いようのない恐怖感を覚える。田舎の電話ボックスと同じ雰囲気だ。光がないことよりも、狭い範囲が薄暗く照らされているのは余程怖いと言えるかもしれない。あれで肝試しやったら、トラウマになるだろう。

そんな恐怖街道をどんどん進んで行き、時々眠りに落ちながらも、だんだんと犬吠崎に近づいてくる。頑張っているのは運転士だが、乗っているだけと言うのも疲れるものだ。残り50kmを切ったときは、結構感動した。まだ半分くらいしか来てないわけですが・・・

スポルトだー!休憩!