家族は本能なのかねぇ・・・

今日は、18時半からひとコマしかバイトがないので、心持も余裕を持って過ごせます。ちゃんとブランチも食べたし、これを書いたらコナミスポーツに言ってこようとも思います。ようやく『仮面の告白』も読み終えることができ、今日は労・読・動の三拍子をそろえることができました。なかなか良い日だ!

そんなわけで、ブランチの後、コナミに行くのですが、食後にすぐ運動するのは何なので、しばらく休んでから行くことにします。そういうわけで暇だったので、ちょっとパソコンに手が伸びてしまったりするわけです。特に用事もないのに、ネットを徘徊するなんて廣瀬と並んでダメ人間の象徴だなぁなどと思うのですが、どうしようもないといえばないのです。

そんなこんなで、懐かしいフラッシュなんかも見てしまったりして、既にかれこれ1時間。まぁいつもに比べれば短いですが。何年か前に見て、いたく感動したフラッシュをもう一度見ました。当時より色々なことに敏感になっていることもあってか、ほろりと涙してしまうこともありました。20の男子大学生がジャージにメガネでパソコンを前にして(しかも座椅子で)一人で涙している場面など気持ち悪くて手のつけようもありませんが、これこそが一人暮らしの特権!

ちなみに、http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=6133が非常に良い感じです。もっと優しく生きていかなくちゃなぁ・・・という気持ちにさせてくれます。人間に悪い人なんていないんじゃないか・・・なんて夢まで抱けてしまうという素晴らしい内容です。開けてみて、「何だこれか、前見たよ」という人も、もう一度見てみると感じることがあるかもしれません。一度是非。

人間にとって、死とは避けることが出来ない人生最後の最大の出来事です。どんなに栄華を極めようとも、底辺を這いつくばろうとも、死という行為自体は平等です。誰しもが順番で回ってくるものであり、そして何よりの悲しみを残る人に与えてしまうものです。望むべき死を迎えられることほどの幸せというものはこの世には恐らくないと思いますが、それだけに満足出来る死を迎えることは難しい。何かやり残したことはなかっただろうか、もっと時間がほしい・・・そう願っても死は待ってくれません。

時として、死を望むようなことがあるのは事実です。どうして生きているのか、その疑問に満足できる答えを見つけることが出来ず、理由がないから生きている意味もない。そう考える夜がこれまで何度あったことでしょう。道を歩いていたら、居眠り運転のトラックが突っ込んできてそのまま死ぬことが出来たら良いのに・・・どれほど不謹慎である意味贅沢なことを言っているかはわかっていますが、この気持ちばかりは時と場合によって禁じえない。今はもうそんなことはほとんどなくなりましたが。

今、あるいは今年中に死んでしまうとしたら、自分の人生はどうだっただろうかと考えてみます。当然のことながら、満足なんて出来るはずがありません。幸せになれていないからです。幸せとは何かというのは、人それぞれ違うものですが、自分の場合は家族に恵まれることです。まだ大学生ですから、現在の日本で叶えるには実現するのが少々難しすぎる幸せの定義ですが。

塩狩峠』に「自分の遺書はこれまで生きてきた行動全てだ」というような記述がありました。これは人の生き方について見事に核心を突いた言葉だと思います。一人の人が他の人に何かを本気で伝えたいときに使うのは言葉ではなく、その人の行動です。どれほど美辞麗句を費やしても、黙々と行動をする人にはかなわないものです。そして、その行動を実行することで、自分の欲求も満たすことが出来るのではないでしょうか。自らの生き方やこうあるべきという姿に忠実に生きていくことこそ、満足な死を迎えるための最大の条件だと思います。

死は待ってくれない。そしていつ訪れるか知ることは出来ない。だからいつ死を迎えても良いように、日常を過ごす必要がある。そのような意識の下で生きていくことが出来れば、見知らぬ誰かにも優しくすることが出来るのでは・・・と思います。自分の人生だからといって、自分の利益にばかり気を払っていると、きっとどこかで拭うことの出来ない虚しさにさいなまれることになります。人は一人では決して生きていけないからです。だから、自分の死を満足行くものにするためには、他人も満足出来るように配慮することが求められます。

だから、最初は身近な人から少しずつ優しくしていきたいと思います。功利的な見地からではなく本心から、ちょっとしたことに対してお礼を言う、感謝する、謝る、意見する・・・だんだん宗教じみてきましたが、そもそも宗教というものは死を満足して迎えるためにつくられたものですから、当然のことといえば当然かもしれません。

家で夕飯になったときには、黙って食べるのではなく、感想を言う。美食家ではないのですから、一言「美味しい」とか「味が薄い」とか「こうしたほうが良いんじゃないか」などと添えるだけでも、相手の気持ちは嬉しくなるものだと思います。料理を多少するようになって、そのことが良くわかってきました。顔の見えないコンビニ弁当ではなく、顔の見える人が作った料理なのですから、感謝したいところです。その感謝のしるしというのが、ちょっとした感想ではないでしょうか。

でも、よく考えてみるまでもなく、そんなことは当たり前のことでした。何年、何十年と続いているからその感謝を忘れてしまいがちですが、ちょっとしたことで、人生の意味は変わってくると思います。人生の大きなパーツというものは確かにあります。それが家族を築くことであったり、仕事で大成功することであったり、オリンピックに出ることかもしれません。けれども、その回りを支えるパーツは、大きなパーツと同じくらいに価値と大きさを持っているのではないでしょうか。それこそが日常における些細な行動だと思います。

相手には優しくしましょう。詐欺や事件など油断ならない世の中ですが、その世の中に流されてしまい、優しさを忘れてしまっては何も残りません。幸せになるために優しさを排除してしまうなど、本末転倒です。幸せは優しさの元にしか宿らないのではないかと思います。だから、優しくありたい。一時的な感想に過ぎないかもしれないけれど、その気持ちを忘れずに一日一日を過ごしたいと思いました。









ところで、遺書というのは、財産の処分についてばかり注目が集まりがちですが、自分が発信することの出来る最後の言葉です。財産にばかり注目してしまっては、あるいは書いた本人がそれにばかり固執してしまっては、あまりに悲しいことではないでしょうか。そういう意味で財産は残すべきではないかなと思います。残す財産があるならば、それを子どものために使ってやったほうが余程役に立ちます。これは自分の親がはっきりと示したことで、まさにその恩恵を受けて大学まで(しかも私立)行かせてもらっています。ありがとう。