『私の権威主義

高校の教科書で夏目漱石の『私の個人主義』というのがあったが、当時は微塵も面白いと思わなかったばかりか、何でこんな退屈な本がもてはやされているのかと疑問に思ったものだ。「どうせ夏目漱石だから、適当に教科書に載せてるんだろ?名前にばかりこだわっているから国語はつまらないのだ」などと偉そうに思っていたのだが、おそらく今読めば少しは変わってくるのだろう。『こころ』を課題図書で出されたときは退屈で仕方なかったのに、大学に入って自分で読んでみると深く感じ入るものがあったというのは、成長の証なのかもしれない。

別に夏目漱石がどうだとかいうことを書きたいわけではなく、タイトルを真似させてもらっただけだ。世の中は一見合理的に作られているように思えながら、実際は非常に不合理で不公平な状態にあることを感じつつある。かといって、その不条理をたかが一大学生が解決できるはずもなく、その不条理の中でなるべくたくさんの蜜を吸おうという志の下、日々過ごしているのである。美しく表現するなれば、「夢を目指して頑張っています!」とか「自己実現を頑張って達成したいです!」とでもなるだろうか。物は言いようである。

洗濯機を試したいので、続きは夜書こう。ちなみに洗濯機は順調ですw。洗濯機開発した人は実に偉いと思います。川へ洗濯に行くことはないとしても、脱水までやってくれるだなんて、どれほど人間の重労働を減らしたことでしょう。当たり前過ぎて忘れてしまっているありがたさというのは、洗濯機にも立派に宿っているようです。さて、話が洗濯機にずれてしまいましたが、もとに戻そうと思います。

清水のお気に入りの言葉に、「人間の名前の価値というのは、その人間が何をしたかによって決まる」というのがある。これは石川雅之の『カタリベ』に出てくる言葉である。確かに、それは事実だろう。人間の価値というのは、あくまで他者が決めるものであり、自己評価というものは、どれほどであっても自己満足に過ぎない。もちろん、その自己満足というものは比類ないほどに重要なものではあるのだが。

しかし、それはあくまで歴史的な見地に立った場合の話である。「人間の名前の価値」を決めるのは、その時代時代の人々であり、その中でも立場が違えば価値観も異なる。ヒトラー時代の寵児であったことがその良い例だろう。今では人類史上最悪といっていいほどの悪に分類されている。

それを個人単位に落としてみると、大した話ではないのである。要するに死後の評価というものは、死んでいるのだから本人には関係がない。さらに言えば、大半の人にとって、社会全体からの評価を受ける機会などほとんどありえない。つまり、歴史的な、あるいは全社会的な評価というものは気にしてもどうしようもないのである。結局、一般個人に必要なものは、身近な人間からの良い評価だけなのだ。言うまでもなく当たり前のことだ。まぁ人間どこかで「世界をあっと言わせるような大きな花火を打ち上げてやりたい!」と思うことがあるだろうが、それは基本的に無理な話だ。

要は、人間は何で評価してくれるかということであるが、親密な人々は人柄で評価してくれることだろう。比較的日常を共にするため、細かい人間性まで見てくれる。それが逆に人間関係の崩壊にも繋がることがあるが、それは致し方ないことだ。それならそれで人格的欠点を直すきっかけになったり、あるいは不愉快な思いをしなくてすむことになる。物は捉えようである。

他にどのような人に評価されることがあるだろうか。このシーズンならば言うまでもなく受験や就職である。特にこの手の人間評価というものは一過性であり、継続的な評価が行われないという点において、友人同士での評価とは大きく異なっている。しかし、人生において経済的な意味で、あるいは近所程度の社会的名声という意味で成功を収めるためには、この評価は何よりも重要なのである。第一関門に通ることが出来なければ、第二関門の心配する必要はない。付き合うことがなければ、振られる心配がないのと同様に。

ちなみにこのような一過性の評価というものは、人生単位で重要なものから日常的で比較的どうでも良いようなものまで多種多様である。重要なのはまさに受験や就職であり、日常的で比較的どうでも良いのは道行く人から自分がどう見られているのかといったようなものだ。授業でたまたま一緒の班になった人との関係などもそれに入る。選挙などもその一例だ。

つまるところ、一過性の評価というものは、一過性であるために、まともな評価をしてくれないといっても過言ではない。この場合の「まともな評価」とは評価される側の意見だが、要するに中身をろくに見てくれないのだ。というよりも、中身を見ることなど不可能といっても良い。一回しかあったことのない人を「どんな人なの?」と言われても、「暗いよ」「じめじめしてる」「遅刻してきた」といったような誰にでも当てはまりそうなことしか言えないように。では、そのような時にはどうしたら良いのだろうか。中身や実力を評価してくれないのであれば、何を見せたら良いのか。

ここで重要なのが、逆転の発想だ。「中身や実力を見てくれない…」と嘆くというよりも、「中身や実力を見られなくて助かった〜」と考えてみてはどうだろうか。もちろん、この考え方が人倫に著しく違反しており、正義ではないということはわかっているが、「受験なんて入ってしまえばみんな一緒!」というのと同じようなものだ。性能で勝負できない、あるいは性能に大差のない工業製品が、どんどんデザインの方向に走り出すのと同じだと考えれば、少しは救われるだろうか。

あぁ、もう眠くてめんどくさくなってきた。。。毎日が快適に過ごせれば何でも良いです。それが難しいんだけれど。