日本語といじめ

日本語とは世界でもかなり難しい言語だと言われていると何度か聞いたことがあるが、確かにそうなのかもしれない。というのは、まず文字体系からして別れているからだ。ひらがな、カタカナ、漢字が日本語の基本であって、時にはアルファベットが使用されることもある。これを使い分けるのが、外国人からすれば難しいのかもしれない。しかし、日本語から漢字を抜いてしまったら、不便なことこの上ないだろう。

ひらがな、カタカナ、漢字にはそれぞれの性格があり、同じ意味をあらわしていても、言葉のイメージというものは異なってくる。「こども」と「コドモ」と「子供」では、意味の違いはないが、やはりイメージする像が変わってくる気がする。これは主観になるが、「こども」だと一人の小さな子という感じがするが、「子供」だと無機質で大勢といったような感じがする。「こども」は幼稚園の先生が使っていそうで、「子供」は文部官僚が使っているといったような感じもする。

ひらがなは柔和なイメージを持ち、漢字は荘厳なイメージを持つ。言うなれば、ひらがなは母、漢字は父と言ったところだろうか。平安時代には仮名は女性が使い、漢字は男性が使った。それは女性のやわらかさと男性のたくましさといったものがあったとしても不思議ではない。ひらがなは優しく、漢字は厳しい。ところで、カタカナは現在では外来語を表す言葉に特化しているとも言えるので、ひとまず置いておくことにする。

「いじめ」という言葉がある。日本に住んでいて、これを知らない人はいないだろう。連日のいじめ報道があり、自殺が相次いだ。しかし、その実情が報道されることはほとんどなく、報道されたとしてもせいぜい「殴る蹴るなどの暴行を〜」とか「集団で無視するなど〜」と言った程度に過ぎない。だから、特番以外ではいじめの真相を知ることは出来ないし、知ろうとしなければ、単なる弱者の自殺と勘違いしてしまうことがある。

「いじめ」は本当に「いじめ」なのだろうか。ひらがなで書くような優しさがあるのだろうか。「虐め」や「苛め」ではないのだろうか。これは決していじめの解決に繋がるものではないが、社会的認知に大きく関与するものだと思う。言葉は現実をイメージ化したものであり、表記方法によってそのイメージは変化してしまう。

幼稚園児が、お弁当を取り上げてしまう。これは「いじめ」だろう。気に入らない弟の頬をつねって泣かしてしまった。これも「いじめ」だろう。からかいが行き過ぎて友達を泣かせてしまった。これも「いじめ」と呼ぶことが出来るかもしれない。

しかし、「いじめ」とは一線を画すべき「虐め」は存在する。







普段はクラス中から完全に無視されている女の子に、ある日「虐め」のリーダーが近づいてきて、「ごめんね、これからは仲良くしようね」といって一緒に写メを撮った。被害者の女の子は、ようやく解放されたという喜びと、友達が出来たという嬉しさに涙が出るほどだった。「ようやく『いじめ』は終わったんだ・・・」どれほど嬉しかったことだろう。

翌日、突然携帯にメールが入ってきた。出会い系サイトからだった。

出会い系サイトからメールが来ることなどはもう日常茶飯事であり、「また迷惑メールか」くらいにしか思わない。しかし、その日はそうではなかった。

本物の「お誘い」メール。知らない男からのメールだった。しかし、もしかしたらそれは間違ってきたのかもしれない。本物に似せて作られた迷惑メールなんていくらでもある。今回もきっとそうに違いない。「いじめ」は終わったんだ。そう思って学校へ行った。






学校では、みんながそのメールのことを知っていた。「出会い系やってるのー?」「身体売ってるの?」「きもーい」罵声が浴びせられる。

そう、「虐め」のリーダーが、彼女のメールアドレスと例の写メを使って勝手に出会いサイトに登録していたのだ。だから個人の携帯に届くメールの内容もほとんどわかっている。






そしてまた、「虐め」は再開されることになった。





これが「いじめ」と言えるわけがない。そこには優しさの欠片もなく、残虐さ以外何も存在していない。だから「虐め」なんだ。身体的にも、精神的にも、残虐の限りを尽くすといっても良い。いわば、精神的な虐殺であり、虐待である。人間は「虐待」や「虐殺」というと、人間の行動の恐ろしさを感じることが出来るが、「いじめ」といわれると、多少殴る蹴るの身体的に危害を加えられることだと思ってしまう。これは大いなる問題だ。

「いじめ」が社会問題化されて久しいが、そのおかげでネットや本で「いじめと戦う」とか「いじめに負けない」といった方法論的なアドバイスはあふれるようになった。「いじめ」ならば立ち向かうことが出来るかもしれない。ちょっと殴られる、蹴られる。だったら格闘技を習って殴り返してやれば良い。そうでなくとも一発思いっきり横っ面を殴ってやれば良い。勇気を振り絞れば、「いじめ」には勝てるかもしれないのだ。

それはそうだろう。「いじめ」のリーダーを暴力で泣かせてしまったり、立ち上がれないほどにしてしまったら、翌日から「いじめ」てやろうと思うやつは少ないはずだ。リーダーの威厳も著しく低下し、「いじめ」に不可欠な結束力も弱まってくるだろう。マンガやドラマでよくあるのはこの手のパターンだ。

だが、「虐め」はそんなことでは解決しない。「虐め」には決して立ち向かってはならない。民間人が戦争から逃げるように、逃げるべきなのだ。虐殺に立ち向かっていっても、殺されるだけであって、生きるためには逃げなくてはならない。勇気を振り絞るのは、「虐め」に立ち向かうときではなく、「虐め」から逃げるときなのだ。

「現実から逃げてはダメだ!戦え!」という人も大勢いることだろう。現に自分もついこの前まではそうだった。社会的に公言することは出来ないが、暴力でもって仕返しをしてやれば大丈夫だとそう思っていた。けれども、そういう人間に限って、その「現実」を知らないのだ。自分も、本当に何もわかってなかった。おろかだったと思う。それでもまだ不満な人がいるならば、是非尋ねたい。あなたは銃を持った30人の人間に対してたった一人で、素手で戦いを挑むのですか?

暴力で止められるのは、相手からの身体的な暴力に過ぎない。良くも悪くも発達してしまった現代の「虐め」は、それに応じて多種多様になり、精神的な暴力が幅を利かせるようになった。身体的な暴力というのは可視的で、発覚しやすく、証拠が残るものだが、精神的な暴力は目に見えず、証拠も残らないので、親や教師が見つけにくい。よくある例としては、ネット掲示板の書き込みは誰にも止められない。しかも匿名なので、誰が何を書いてもばれることはない。どれほど疑われても「違います」といってしまえば、何も出来ないのだから。

さらに、「虐め」は少人数では成立し得ない。精神的な暴力は被害者から完全に心の居場所を奪うことによってしか出来ないのである。クラスの中の一グループがその被害者を無視していても、クラスの中に誰か喋る人がいれば、被害者は救われるのだ。だから、ターゲットを一人に絞って、クラス全員を巻き込んだ「虐め」が行われるのである。傍観者が「虐め」の加害者だといわれるのは、この点にあるのではないかと思う。