フィクションにみる己の平凡

「平凡な毎日を享受しようよ」と言っていたクマがいたが、大抵は実に平凡な日々を送っている。平凡というのは、その他大勢と大差ないからこそ平凡なのであり、かなりの高確率で平凡になる。別に平凡が悪いわけではないし、日本で平凡なのであれば、今のところは幸せだといえるだろう。

例に洩れずして自分も平凡な日常を送っている一人である。映画や小説を鑑賞するとその差が実に良くあらわれてくる。

10歳の天才が突然自分の高校に転校してくると言うこともなかったし、外国を旅行中に現地の子どもを拾って育てることになったと言うこともない。ワケのわからない人形の戦いに巻き込まれることもないし、いきなり父親から巨大ロボット(と言ってはいけないのだけれど)に乗るように言われたこともない。気付かなかったことを「も、盲点!」ということもないし、未来人や超能力者が周りにいるわけでもない。芸術大学に通って天才に囲まれることもないし、「108式まであるぞ」などと言ってくる中学生もいないし、身体の中から蛆虫が出てきて連続猟奇殺人が起こることもない。当然近くに青い服を着てメガネをかけた少年に時計で狙われることもない。

実に平凡な毎日である。ところで、ここまで普段私が何をしているかがほとんどわかってしまった人は、私に余計な突込みを入れる前に自分の生活を見直したほうが良いでしょう。

というように、平凡なことは平凡なのだが、それ自体にはそれほど不満はない。映画やドラマやマンガは非現実的であるからこそ面白いのであり、現実にそのようなことに巻き込まれたら命がいくつあっても足りることはない。時々虚しくなることはなくはないが、それよりもそんなことに虚しさを感じる自分の方が余程虚しいものだ。

それよりも哀しくなってくるのが、自分の性格の平凡さである。感情移入することなしに、フィクションを楽しむことは出来ないと思うが、読み終わってみてから冷静に考えてみると、自分がどんな人間なのかということがわかってくる気がする。

例えば、この前『白い巨塔』を読み終わった。その内容を知っている人も多いと思うが、前半は一流国立大学教授選挙がメインであり、後半は財前教授の医療ミスによる医事裁判がメインである。どちらも非常に人間の本質を描き出している傑作であると思う。ここから先は『白い巨塔』のネタバレを含むので、もし読んでいる人の中で、これから読もうと思っている人は、読まないほうが良いでしょう。

白い巨塔』の主な登場人物は、主人公の財前教授を中心として、その対極的性格の里見、医学部長の鵜飼、財前教授の部下の柳原医師、同じく金井助教授などがいる。もちろん、他にも重要な登場人物はたくさんいるのだが、特に重視したいのは以上の人物だ。

白い巨塔』の中でも、後半の医事裁判に注目したい。簡単にストーリーを述べると、第一外科教授に昇進したばかりの財前は内科医の里見からある患者を紹介される。財前は嫌々ながらもその患者を引き受け、癌の手術を行うことになる。その手術は非常に高度な技術が要されるものであり、財前は見事にその手術を成功させた。しかし、財前は手術前の診断を誤った結果、手術後に患者を死に至らしてしまう。そして、その診断ミスを理由に、患者側は財前を提訴することになるのである。権威主義者で権力主義者の自分は、財前を応援したいところであったが、まぁそれは別の話である。

財前が患者に対し、診療ミスを認め、謝罪していたならば起こるはずのなかった裁判であった。しかし、財前は新鋭の第一外科教授としてのプライドから、そのミスを認めず、第一外科を挙げての隠蔽工作に走った。完全にミスを隠蔽してしまうことで、医療的に問題がなかったことを裁判で立証しようとしたのである。

それには、患者の担当医であった柳原医師の偽証がどうしても必要であった。柳原医師は財前教授のミスに気付きながらも、国立大学医学部の封建性から教授に強くそれを訴えることが出来ず、患者を死なせてしまったという罪悪感を覚えていた。それを財前は柳原にそのような事実はなかったと偽証させ、その見返りとして学位認定と縁談を持ちかけた。

柳原医師は自らの貧しい境遇から、なんとしても国立大学で成功したいとの気持ちが強く、財前の出した提案に応じざるを得なかった。その結果、偽証することになり、それによって第一審では財前側が勝利することとなる。しかし、患者側の没落を見てしまった柳原医師は更に良心が咎めてしまう。

一方、里見は自らの医師としての正義感から、財前側の偽証には参加せず、国立大学から追い出されてしまう。研究者として国立大学を追われるということは、設備の面や予算から考えても、自らの研究を続けることは出来なくなることを意味する。しかし、それでも里見は全く迷うことなく、例え同期の財前を敵に回すことになっても、裁判で真実を語り続けた。

第二審において、患者側はかなり有力な証拠をつかんでいたため、財前側は更なる偽証を求められることとなった。財前は柳原医師に全てをなすりつけるような言動を繰り返し、柳原は自らの良心の呵責と財前の非道さに耐えられなくなり、これまでの発言が偽証であったことを告白してしまう。それだけが原因ではないが、判決に大きな影響を与え、財前側は敗訴することになる。

ここまでが重要なところである。簡単に登場人物の性質を分類すると、

正義派…里見:裁判で真実を述べ続ける

中道派…柳原:最初は偽証するが、最終的に真実を述べる

隠蔽派…財前:国立大学医学部のプライドのため、患者の死を偽証
    金井:財前の偽証に最後まで協力
    鵜飼:財前の勝訴に各方面に協力を求める

では、自分はどのようなタイプだろうか。両極端である里見と財前の立場を取ることが出来る人は少ないのではないだろうか。正義を貫くことは当然のことながら、並大抵のことで出来ることではなく、逆にプライドから自分を偽り続けることも中々出来ることではない。本来人間として取るべき行動は間違いなく、里見のような行動であるが、それが出来たら世界から犯罪はなくなることだろう。

多くの人が、柳原医師か金井助教授の立場を取るのではないかと思う。最初から正義を貫くことは難しい。その正義を貫く強さと現実が戦って、その戦いに勝った判断を下すことになるだろう。しかし、正義を貫いた場合に自分が受ける苦難を考えると、ほとんどの場合は現実的判断を優先する。

高校3年生のときに、応援団の飲酒問題が発覚したことがあった。幸いにして自分は部外者で済んだのであるが、応援団の打ち上げに参加してしまった生徒は飲酒疑惑に掛けられ、叱責された(らしい)。たまたまその日は部活があったので、打ち上げに参加しなかっただけであり、参加していたら自分は飲酒しないまでも、きっと他の応援団員が飲んでいるのを止めることはなかっただろう。それも正義に反することだ。

それ以上に愕然としたのが、教師の追及に対する対応だった。C組応援団員は、全参加者と口裏を合わせて、飲酒の事実を否定しようとした。当然のことながら、飲酒は公然になっていたので、そんなことで隠し通せるわけではなかったのだが、気持ちは良くわかる。事実、クラスのほとんどが隠蔽工作に協力したのだが、一人だけ「裏切り」が出た。

クラスの中心は「裏切り」を責めた。部外者であった自分は己の身に危険が及ぶ可能性がなかったというのが正直なところだが、「裏切り」に対するクラスからの叱責にひどく嫌悪感を覚えた。「裏切り」は単に真実を述べたに過ぎない。それ自体は「裏切り」であるどころか、本来あるべき姿だったにも関わらずである。当時はその叱責の中心にいた人物を軽蔑していたが、もし自分が打ち上げに参加していたらどうしていたかと考えると偉そうなことをいえたものではないと思う。

「飲酒が事実であった」と述べるのが真実であり、正義であるが、それによってクラスから叱責され、さらに自分が教師から怒られるかもしれない。その二つの判断を天秤にかけるとしたら、どちらを選ぶだろうか。

この飲酒問題にしても、『白い巨塔』の例にしても、きっと自分は偽証を選んだだろう。そして最後まで真実を述べることはなかっただろう。偽証によるデメリットがあまりに大きく、残念ながらそれを受け入れられる器の大きさや正義感を持っているとは思えない。

白い巨塔』の登場人物に自分をあてがえば、金井助教授になると思う。一患者の無念よりも、巨大医学部の権威とその象徴たる教授を守ることに一生懸命になり、正義を見失っていたことと思う。良心の呵責には一生悩まされるだろうが、そのときの現実には勝てない。かといって、財前が自らそのミスを認めてくれたら、その方が自分が悩まないで済むだけありがたいと思うくらいに弱い人間だと思う。

そのようなときに、実に虚しくなるのである。仮にフィクションに過ぎなくとも、その立場に立ったら自分はどのような行動を取るのか、そしてどのような結果を招くのか。それを考えると自分の弱さに気付いてしまう。姑息で、ずるくて、責任を取りたくなくて、苦しいことからは逃げ出したい。こんな人間では満足のいく人生が送れるはずがない…と暗鬱となる。

これは、「現実的にありえない」だとか「所詮フィクションに過ぎない」で済まされる問題ではない。どのような登場人物にも人間性は備わっており、そして自分の憧れる登場人物がいる。その人間性ならば、幾分か改善の余地があるのではないだろうか。しかし、そんな簡単に出来ることではない。改善の可能性はあるが、その可能性があるだけに逆に虚しくなってしまう。現実的にありえないのであれば、他の誰にでもあるはずはないが、現実的にどうにかなるのであれば、それを見事に実践している人がいることになる。

医師として患者を自分のミスから死に至らしめてしまったとしたら、「私のミスです」と素直に認めることが出来るか。良心の呵責と引き換えに、国立大学医学部教授のイスを明け渡すことが出来るか。その判断は各自の正義と良心にかかっている。教師になろうという人間が、正義を選ぶことを迷ってしまうというのは、その性質を疑わざるを得ないかもしれないが、偽善を演じていても仕方がない。

自分の弱いところは認めなくてはならない。これは世間でよく言われていることである。しかし、それはあくまで第一段階に過ぎないことを忘れられているのではないかと思う。弱さを認識したら、その弱さを克服して初めて意味がある。どうも「弱さを見せること=強さ」のような考えがまかり通っている気がしてならないが、それは大いなる勘違いだ。弱さはあくまで弱い部分であり、それを認めることが出来るのは別の強さだ。弱さの克服とは異なる。

認識することは出来た。あとは、どれだけ弱さを克服することが出来るかどうかにかかっている。具体的な方法を見つけることは出来ないが、正義を貫く力というのはそのまま人間性に繋がるほどに大きな部分である。毎日の意識から変えていくのが最も確実な道だ。

疲れているときに、目の前の老人に電車の席を譲ることから始めようと思う。それも難しいけれど・・・