飛行機と電車と勉強。

これまでたくさんのところに出かけることがあったけれども、その時に飛行機に乗ることも数少ない事ながら何度かあった。だから、今でも飛行機に乗るときは少し興奮する。乗り物に乗るくらいで興奮するなんて子どもらしいと言われるかもしれないが、旅行に行く楽しさとは別に、乗り物にはそれに乗る楽しさというものがあると思う。毎日乗っている普通電車にはもう感情も何も無くなってしまったが、飛行機や特急列車、寝台車などというものは非日常的であるので、そこに何らかの楽しみが生まれるのは、旅行を楽しみにするのと本質的には変わらない。

という話をしたいわけじゃない。確かに、今はテスト期間で、現実逃避に旅行に出かけたいとか、無目的に電車に乗って行けるところまで行ってみたいとか思うことはあるが、現実とは戦わないといけない。だから今日も朝からおきて1つ6000字のレポートを完成させた。頑張ったと思う。

昨日、電車に乗っていて、1つ気がついたことがあった。別にこれといって大した光景ではなく、ただ優先席付近で携帯を使用している人がいただけである。マナー違反であるので、良い気分はしないが、携帯の普及もあって、電車内での携帯の使用にそれほど抵抗感がある人は少ないのではないかと思う。自分としては電車内での通話は他の何よりも忌むべき行動だと思っているが、メールくらいならば良いだろう。

しかし、優先席付近では明らかに携帯の使用は禁じられている。理由は周知の通り、ペースメーカー等の医療的配慮である。実際は、携帯が医療機器に与える影響などはあってないようなものであり、病院でも携帯は鳴りっぱなしだという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは定かではない。最近は、マイナスイオンゲルマニウムなどのニセ科学が横行しているので、それと同じ可能性も十分にありえる。

と言っても、マイナスイオンゲルマニウムといった問題と、携帯が医療機器に与える影響では決定的な差があることを忘れてはならない。それは、万が一ではあるものの、生命に影響を与える可能性があるということである。自分が死ぬわけではないが、もしかしたら人を殺してしまうかもしれない。刑法上は責任を問われないかもしれないが、被害者の立場に立ってみれば実に恐ろしい問題である。万が一ではあっても、命に関わるのならばそれを避けたいと思うのは当然だろう。

でも、多くの人はそれを気にしない。優先席付近でも平気で電話をする人も居れば(このタイプの人間は非常に嫌いだ)、電話はしないがメールはする人(これも電話ほどではないにしろ、嫌である)、メールもしないけれど電源は切らない人(多くの人がそうではないだろうか)などなど様々である。最後の電源を切らないというのは一見良心的に見えるが、マナー違反であり、ルール違反であるのだから悪である。

だから、自分は優先席付近には近付かないことにしている。ペースメーカーの人を気遣っているというよりもむしろ、マナー違反をしているという気分は良くないという自分の立場としての行動であるが、やらないよりましだろう。悪いことは犯さない、これは最低限のルールである。あまり偉そうなことは言えないが・・・

とにかく、ここでは善悪論は置いておく。重要なのは大半の人が電車内では優先席付近での配慮をしていないということである。





話は変わって、飛行機では携帯電話以下通信機器の使用は禁止されている(と思う)。その理由も似たようなもので、飛行機器に影響を与える可能性があるからだ。飛行機というものは非常に複雑な力が働くために、電車や自動車に比べて精密な機械精度が求められるのだろう。それ自体は別に不思議なことではない。

飛行機の中では、人の多くは携帯の電源を切るのではないだろうか。それほど飛行機体験が多いわけではないので、断言できるわけではないが、電車に比べれば圧倒的に乗務員の指示や機内ルール、マナーに従う人が多いようである。これは法律的な問題もあるだろうが、飛行機に乗る際に法律を気にしながら乗っている人は少ないだろう。

この違いはどこから来るのだろうか。電車内で「優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい」と言われるのと、「飛行機の中では一切の通信機器を使用しないようお願い申し上げます」と言われるのには大差はない。そして求められる行動も同じである。それなのに電車内ではそれは守られず、飛行機の中では守られる。




それは誰が被害者かということに焦点があるのではないだろうか。電車の中で携帯を使っても、被害を受けるのは所詮は他人。飛行機はもしかしたら大惨事に繋がって自分が死んでしまうかもしれない。言われていることややっていることは何も変わっていないのに、片方では無視され、もう一方では遵守される。

何気ない光景ではあるけれども、そのようなところに人間の本質というのは見え隠れしているのだと思う。結局、人間が考えているのは自分のことで、不特定の他者への思いやりなどはオプションに過ぎないんじゃないのかと。

そう考えて自分の行動を振り返ってみると、これまで生きてきて1つでも全く自分のためにならないことをしたことがあっただろうか。きっとないと思う。どんなに他者への思いやりに溢れているように見えても、必ずどこかで自分の利益と繋がっているはずだ。その利益の大きさというのは異なってくるが、内容は変わらない。

ボランティアも他者への思いやりの最高峰として扱われるが、そこにおいても必ず何らかの利益が発生する。利益というと語弊があるかも知れないが、「人の役に立つのは嬉しい」と言った気持ちがあるはずだ。しかし、決してそれが悪いといっているわけではない。行動の善悪は時と場合によって評価が異なるものである。どんな下心があったとしても、ボランティアで他者に何らかの助けを与えることが出来たら、その行動は評価されてしかるべきだろう。

無目的な行動を除いて、利益の全くない行動とは何なのだろうか。そしてそんなものは存在するのだろうか。利益は合理的ではないことも往々にしてあるだろう。単なる自己満足であって、総合的に見て損失が出るかもしれないが、結果というのはここでは二次的なものでしかない。あくまで問題は行動の目的なのである。

だから、不特定の他者に対する思いやりの気持ちは、オプションになりがちなのではないだろうか。そして、そのオプションを充実させることこそが立派な人間になれる道だと思う。立派な人という定義は簡単には出来ないが、どれだけ他者の利益を尊重することが出来るのか、あるいは侵害しないで済むのかということは、重要な案件だ。

経済力がある、社会的名声を手に入れた、由緒ある家柄出身、高学歴、容姿端麗・・・人には様々な欲望がある。その欲望を達成している人が立派であるとされることが多いが、それは単なる権威であって中身ではない。料理で言うならば、権威とは見た目であり、中身とは味のことだ。どれほど見た目が華やかであっても、実際に食べてみてまずいものには価値がない。しかしそれは、食べてみられて初めて評価されることである。人に食べたいと思わせるには、ある程度の見た目の良さというものも必要になってくる。逆に言えば、見た目がグチャグチャの料理を食べたいと思うかということでもある。

美しいだけの料理には料理としての価値はないが、全く美しさのかけらもないような料理はそもそも評価してもらえない。だから、最終的には味を重視しながらも、見た目の良さにも気を払うべきなのである。

自らを味のある人間にするためには、自分自身を強く律していかなくてはならない。それは全て自己責任であって、他者が中心となって自分を高めてくれるわけではないのである。あくまで他者はきっかけであって、結果ではない。それらは法律を犯さない限りは各人の自由の範囲であって、他者が強制させることは出来ない。強くなくてはならない。

それと同時に見た目を良くしていかなくてはならない。もう整った容姿や由緒ある血縁を望んでも、変えることは出来ない(結婚しても流れる血は変わらないし、整形は論外です)。だから出来る範囲で出来ることはしなくてはならない。それが学歴であり、資格であり、ダイエットである。まずは「美味しそう」と思わせるようにしなくては、身内同士の馴れ合いに終始してしまうことがある。だから勉強する。勉強する理由は、それだけでも十分ではないだろうか。もちろん、この場合の勉強とは学問に限った話ではなく職業訓練やスポーツの練習などを含んだ幅広い勉強である。勉強というよりも、努力する理由と言っても良い。

それと同時に、「見た目は良いけど不味い!」と言われないように、準備しておかなくてはならない。片方だけではどうしようもないのだ。ただ、見た目の問題は世の中の流れや個人差によってかなりの幅があるのに対し、味の問題はそれほどその差は大きくはない。人間としてどのようにしてあるべきかというのは、まとめることは出来なくても、具体例を挙げることは出来るだろう。その場合、その具体例は大体重なるものである。

「学歴なんて必要ない!必要なのは能力だ!」などと叫ばれているが、学歴だってあったほうが良い。なるべく大勢の人に足を止めてもらえる方が良い。学歴が必要ないというのであれば、ただ単に学歴に変わる何かが存在しなくてはならないのだから、結局同じことを言っているのである。

だから、来週火曜日の朝鮮語のテストに向けて、頑張らなくてはならないんだ!でも朝鮮語と聞いて、誰が足を止めてくれるだろうか。その点は甚だ疑問である。。。