人間が守るべきルール

「人間が守るべきルールとは何ですか?」と聞かれたら、なんと答えれば良いのだろうか。

ある人は、「それは法律でしょう」と答えるかもしれない。またある人は、「それは道徳だよ」と答えるかもしれない。そもそも、正解があるかどうかすら、わからないといえばわからない。

「法律」と「道徳」。どちらも人間として守らなくてはならないルールであることは疑いようがないだろう。法律を破れば、裁かれるし、道徳を破れば人間関係が壊れてしまう。人として生きていくためには、どちらも守っていくほか道は無いのだ。

しかし、これには順序がある。確かに両方とも重要なルールではあるのだが、同じものではない。道徳に違反するからと言って法律に違反するとは限らないし、法律と道徳がかみ合わないことも稀にある。基本的に法律というものは、道徳に基づいてつくられていると思うが、しかし、基本的には別のものなのだ。

法律とは、人間が守らなくてはならない最低のルールだ。人間社会で生きていくためには、これを破ることは許されない。ごく当然のことであり、考えるまでもないかもしれない。法律を破れば、即座に「悪」となる。「悪」は社会で普通に生きることを許されない。だから、刑務所はいたるところに存在し、罰金という制度があるのだ。

道徳は、法律よりも一段階高いルールだ。高尚なルールと言って良い。道徳を破っても、罰せられないことはあるけれども、道徳を破れば、その人の人間としての価値は落ちていく。道徳を守ることは、「善」なる人間になるためのルールなのである。道徳を破ることは必ずしも「悪」になることにはつながらないが、少なくとも「善」になることは出来ない。

例えば、電車の中でヘッドフォンから音漏れがしていたとする。「ヘッドフォンから音漏れをさせてはいけません」という法律は無い。あるのは「音漏れは周りの人への迷惑となるのでやめましょう」という道徳である。

法律は無いから罰せられることはないが、道徳を破ったことでその人は「人の迷惑を考えられない」という評価を受ける。「善」なる人間になる資格を失う。ここが、人間を二つに分ける第一の岐路だと自分は考える。

その岐路の片方の道は、堕落した人間になることを自ら許可する道であり、もう一つの道は、より「善」なる人間になろうと努力することを誓う道である。ここで前者を選ぶことは、楽な道ではあるものの、絶対に人生の最高点を味わうことは出来なくなってしまう。ただ、この岐路が実際の道と違うところは、いつでも自分たちはその岐路の前に立っているという事である。

意識的にしろ無意識的にしろ、我々はいつでもこの道徳の岐路を選ばなくてはならない。最初は意識して、そして段々と意識しなくても後者の道を選ぶことが、満足に足る人生を手に入れる方法である。

つまり、法律とは人間社会で生きるかそれを放棄するかの岐路であり、道徳とは人間社会で満足出来る道を選ぶかどうかの岐路である。だから、人間社会に生き、幸せで充実した人生を送るためには法律も道徳も守っていくほか選択肢は無いのである。

しかし、この「道徳」というものは少々厄介なものでもある。「法律」は明文化されており、法律を破ったかどうかという事は見分けやすいし、見分けにくいものは裁判官が裁くことになる。法律の場合は、客観的に「悪」か否かという結論が出るようになっているのである。

それに対して「道徳」は明文化されていない。人によって道徳の基準というものは変化するものである。もちろん、核となる部分は変わらない。それは「人に迷惑をかけてはならない」という最低限のものである。集団の中においては、この最低限の道徳を守っていれば、問題なく生きていくことが出来る。