自分

ここのところずっと、何かをため込んでいる気がする。もしかしたら大学に入学してからかもしれない。何かが足りないということはわかりきっているのだけれど、その何かがわからないから不安になる。誰もがそうなのだろうか。そりゃもちろん、人生をかけられるほどの何かをこの時期に見つけられる人なんてごくわずかしかいないだろう。大抵はその日その日の楽しみを糧に過ごしているはずだ。自分だって、将来は進学校で東大にも入れるくらいに日本史を上手く教えられるようになって、部活の顧問をやって部を強くして、生徒の貴重な若い時代をなるべく思い出深くなるような手助けをできるようになりたい。

そのためには、やることはたくさんあることはわかっている。受験特有の日本史の傾向というものを学んでいかなくてはならないし、実際に自分が東大日本史を解けるようにならないといけない。部活を強くしたいのならば、運動生理学やコーチング、心理学を学ばないといけない。やるべきことはたくさんある。海外にだって行ってみたい。

自分の周りには、教職はもちろん、公認会計士司法書士、弁護士になりたくて勉強している人はたくさんいる。彼らは皆、自分たちの将来を確かなものにするために、日々努力しているのだと思う。そしてそれは、実に感心することであり、立派な行いだと思う。

けれども、それが本当に自分のしたいことなのか、と問われれば、答えることは出来ない。将来教師になりたいという夢は、小学生以来途絶えたことはないし、その心に嘘は無い。それは教師になりたい自分を信じているわけじゃなくて、本心だ。でもそれは、人生目標じゃない。あくまで、「将来の夢」なのだ。「将来」は一歩ずつ近づいてきてはいるのだけれど。

今、自分には一体何が足りないのか。やるべき事は山のようにそろっている。何から手をつけたら良いのか迷うほどにそろっている。それらをこなしていけば、大学卒業なんてあっという間だ。それで間に合うかどうかすら確証は無い。ただ、自分が生きているのは、「今」だ。「今」この瞬間にこそ、呼吸をして、この文章を考え、悩んでいる。「今」があるからこそ、「将来」がある。「将来」は「今」の積み重ねだ。だからこそ、「今」やるべきことはあるし、それをやらなくてはならないのだが、しかし、それだけで「今」を充実した時間にすることは出来ない。

もし「将来」を「今」の積み重ねであるとすれば、「今」が楽しくなくては、どれほど「将来」に備えて準備していても、その「将来」は単に理論的で、空虚な、全く重みと面白みの無いものになってしまうだろう。「将来」への準備というのは、絶対的に必要になってくるものだが、準備を重ねながらも、自分たちは常に現実という本番を生きている。今の本番を上手くこなせないものが、準備を重ねた将来の本番を上手くこなすことができるだろうか。

我々は人間だ。人間とはヒトとヒトとの間にのみ存在する。コミュニケーションを取ることで、はじめてわかることがほとんどだ。どんな偉大な哲学者も、自分独りでその考えを大成したわけではなく、そして誰もが誰かの影響を受けて今を生きている。

自分の夢は、若い人たちにどれほど有意義な時間を過ごしてもらえるかということに、なるべく良い意味で大きな影響を与えられるかという事だ。そのためには、教師が物事を教えるために生徒よりもその内容を熟知していなくてはならないのと同様に、人間として深みと重みのある性質を持たなくてはならない。では、深みと重みのある人間とは、一体どのような人間なのか。

それは、まさにそれこそが、今自分が捜し求めている「自分」なのだ。誰よりも自分の身近な存在である考える自分が、自分自身を肯定できるようになることこそが、第一に必要なことなのだ。今の自分が、自分を肯定できるようになるには、決定的な「何か」が足りない。大学のように、自分の時間が持てる機会は、退職までもう無いだろう。今まで自分は、大学がモラトリアムと呼ばれることに、大きな嫌悪感を抱いていたが、それは自分の夢を叶えるために欠くことのできないモラトリアムという時間だったことに、ようやく気がついた。

だが、もう時間は幾分も無い。そもそも「自分」を見出すのに、全人生を以ってしても時間が足りないことはあっても、余るという事は無いのだ。迷っている時間は無い。何でも良いから動くしかない。仮に目的地が決まっていなくとも、今の自分に足りないことは、出発に当たっての決意だ。考えることは、確かに有意義なことではあるが、それだけでは成就できない。行動に移してこそ、自分を手に入れる機会をようやく手にすることが出来る。とにかく、何でも良い、動き出す。時間はいくらあっても足りないのだから。

そして、自分が自分を肯定できるようになったときに初めて、自分の夢が叶うのだ。行動というものはあくまできっかけに過ぎない。他人から見るだけであるならば、自分が自分を発見したから、肯定することが出来たからといって、明らかな変異は見られないかもしれないが、その自己肯定の認識は、関わる人には無意識ながらも必ず伝わるはずだ。

何でも良い、まずはきっかけを作らなくてはならない。それが無くては認識も何も無いのだ。旅に出るも良し、本にふけるも良し、何でも良い。ただ「今」を生きていく上で納得できるものではないと意味はない。もしかしたら一生涯自分を見つけることは出来ないかもしれないが、その努力をしたことは、絶対に肯定できることだろう。








と、一人で酒を飲んでハイになって考えた。久々に満足できる文章が出来たと思う。