自己嫌悪?

最近、自分がとてつもなく嫌な人間に思えて仕方ないことがある。言いはしないものの、心に非常に残酷な言葉が浮かんでくることが少なくない。言葉にしないことで良いとするか、それともそれを考えた自分を嫌いになるか。自分の場合は後者だ。そんな自分が本当に嫌になる。だからと言ってどうしようというわけでもないし、どうしようと考えてもどうなるものじゃないと思う。考え方を一朝一夕で変えるなんて不可能だ。

この前、塾内でカンニングが行われていることに気がついた。小学四年生だった。この塾は中学受験を扱ってはいるが、良くて中堅狙いで、日能研四谷大塚のように偏差値の高い中学は狙えない。生徒もそれほどまでに中学受験一筋!というわけではないようだ。自分の四谷大塚時代に比べると、結構遊んでいるんだなぁという感じがする。アットホームな塾なので、授業後に講師室に遊びに来る生徒もたくさんいる。勉強だけの面からすれば、決して好ましいものではないけれども、それ自体は悪いことではない。小学生が悩んで悩んで円形脱毛症になるよりも、はるかにましだ。

何が言いたいかというと、親からの強迫的なプレッシャーや子が自分で自分を追い込んでしまうような環境にあるわけではないということだ。勉強に対するプレッシャーが弱いといっても良い。そんな中でカンニングだ。厳しい環境下で、どうしようもないような成績を周囲から期待された結果としてカンニングしてしまうとしたら、それは子どもには罪はないと思う。その場合は周囲の責任だから、許すことは出来る。

けれども、そういうわけじゃない。追い込まれていないのにカンニングするということは、単に塾と勉強が面倒になっただけだ。もともと望んで通っている塾ではないのかもしれないし、勉強が嫌いなのかもしれない。それを好きにさせるのも講師の仕事の一つではあるから、その点に関しては深く反省し、考えている。小学六年生ならまだしも、四年生に何のために塾に通っているかを理解させるのはほとんど不可能かもしれないが、来ているからには結果を残させないといけない。そして結果を残すためには、何よりも生徒自身のやる気がなくてはならない。

カンニングすること自体は、多くの人が経験したことだとは思う。偉そうにここで述べている自分も、中学受験時代に過去問を解いているときに答えを見たことがある。そのときは親にばれて大変に叱られた。だからというわけではないが、一回目だったらまだ許す気もある。

それが一回目じゃなかった。一学期も一度それで指導した。一回目だから軽く、怒ったような雰囲気もあまり見せずに。そして二度としないことを誓わせた。

それを破られた。心の狭い自分は、今度は本気で許せなかった。怒るといっても、自分の場合はガツンと大声で怒鳴ったりするタイプじゃないので、嫌な感じだとは思うのだけれど、静かに怒る。まぁ今は怒り方の問題ではないからどうでも良いけれど。怒ったけれども、それで反省してくれるのならばそれで良いと思った。次回からまじめに授業に取り組んでくれるならば、親や塾長に相談しなくても良いと思ったし、下手に相談して心を傷つけるのが嫌だった。

そういうことがあり、カンニングから翌週の授業に臨んだ。少しは反省してまじめに問題に取り組み、解説を聴き、宿題を提出する。それだけで良いのだ。大きすぎる期待ではないと思う。ましてやカンニングが発覚した後なのだから、それくらいの誠意を見せてくれても良いはずだ。そこまで考えが働くかどうかは確かに微妙なところではあるのだけれど。

その期待は見事に裏切られた。不真面目な授業態度に、四年生らしい小生意気な発言(これが結構イライラする…)、問題を解かない(これは学力不足という面もあるのだが)・・・呆れ返ると同時に、心の底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。もちろん、表面上は冷静を装っているけれども、それがどこまで出来ていたかは自信がない。

小学生がよくやる、首を切る動作と親指を下に向ける動作を組み合わせたもの、その意味は「首切って死ね」ということだが、それを冗談半分でやられたときは(本気だったかもしれないが)、もう限界だった。これまで溜め込んできた怒りが心の中で噴出した。何とか自制を効かせて表に出すのはとどめることが出来たが、このときの自分の感情の恐ろしさに、人を傷つけることをいとわないと言う恐ろしさに改めて気がつかされた。

小学生は良くも悪くも純粋な一面がある。その時期に大きな傷をつければ、それは一生ついて回ることになるだろう。だから、小学生と付き合うときには最大限気を払わなくてはならない。自分はカンニングをネタにして傷を負わせることも出来たのだ。それを一瞬でもしてしまおうかと考えた自分が嫌になった。それを人間として異常な感情だとは思わないが、そうはありたくない。

人を傷つけずに生きることは出来ないが、意図的に、残酷に傷つけることだけはしたくない。それは今まで色々な経験を積んできてようやくわかったことだ。傷つけることは簡単に出来るけれども、それはいくら後悔しても元には戻らない。ただ、どうしたらそのような残酷な性格を、根元から直すことが出来るのか、それが全然わからない。そして、もしかしたらそんなものはないかもしれない。

だから、自分は傷つける言葉をなるべく自分の中にしまっておくしかない。でも、その言葉は、表に出せば人を傷つけるが、中においておけば自分を傷つける。自分で生み出したもので傷を負っているとは、実に世話ないことであるが、何とも哀しいことだと思う。