戦後世代の責任

今日は8月14日。61年前の今日、日本人はまだ連合国を相手に必死に絶望的な戦いを続けていたのだろう。ごく一部を除いて、誰もその翌日が終戦の日になるとは思っていなかっただろう。終戦があと1日早かったら、死ななくて済んだ人も多かったはずだ。誰もがいつ死ぬか、殺されるかわからない、恐ろしい世界に日本はあった。

ヒロシマナガサキの悲劇をはじめとして、東京大空襲沖縄戦硫黄島攻防、餓島と呼ばれたガダルカナル島の激闘・・・日本人は他国の人々に大きな被害を与えながら、自らも大きく傷つけられていた。そしてその傷つけあいの中で生まれたのが、特攻兵器だ。

「特攻」、この言葉は戦後になっていやに軽い意味で使われるようになった。テレビでは下らないことをやる馬鹿な人間を「特攻隊」と呼び、海外では「KAMIKAZE」として皮肉られる。その中に本物の「特攻」の恐ろしさ・哀しさなどは微塵も感じられない。自分達と同じ世代の人間が、自らの身体を「兵器」と化して、己の命と引き換えに敵の命を奪いに行った。自分には、歴史を学ぶ人間としての、そして社会科教員を目指すものとしての、戦争に対する何かを伝えていく責任があるのではないか。最近になって、その気持ちがとても強くなってきた。戦争を知らない人たちに、戦争を知らない自分が出来る限り調べて、伝えたいことがある。

あの戦争について、伝えたいことは山ほどあれど、一度にその全てを伝えることなどは出来ない。そして、人づてになればなるほど、その話からは正確性が失われていってしまう。しかし、それでも、戦争を全く知らない、その悲劇を考える機会すら与えられないというのは、あまりに哀しすぎる。だから、ある程度の間違いがあっても、全ては伝えられなくてもやらなくてはならない。

ここでは、多くの特攻について、自分の知る限りのことを書こうと思う。なぜ特攻をその内容に選んだか。それは特攻の悲劇の性質が他の戦争の出来事とはかなり異なるからである。市民に対する無差別爆撃、集団自決、飢え死んで行った兵士達・・・彼らには彼らなりの悲劇があれど、しかし特攻の悲劇は、それを上回るものだと思う。

東京大空襲沖縄戦などでの悲劇には、選択性が全くなかった。人々はただ逃げ惑うことしか出来ず、死は向こうからやってくるものであった。死は、生と並んで人間の最も大きな出来事であるにも係らず、それを選ぶことが出来ないというのはつらい。しかし、特攻隊員たちは、その死を自ら手繰り寄せるしかなかったのだ。最初は国や仲間のことを考えて死を選ぶことが出来るかもしれないが、必ずどこかで疑ったはずだ。その修正が効かない、それがどれほどに大きなことだろうか、想像なんて全く追いつかない。

つづく・・・