戦争・・・

特攻隊。実に重い響きだと思う。自分と同じくらいの、時には自分よりも若い人々が、仲間のため、国のために自らの命を散らしていった。彼らはどこかで、自分の死の価値を疑ったことだろう。それがわからないほどの、報道に騙されるほどの年齢ではないだろう。自分の街の空を敵の飛行機が好き勝手飛び回る状況で、勝った勝ったと思い込むはずがない。日本はいつか負ける。それをきっと知りながらも、死地へと向かった。

自分も、命について考えることはある。だけれども、その考えなんてものは「下手な考え休むに似たり」という言葉がぴったりなほどに下らないものだ。年は変わらないのに、彼らはそのようなことを身をもって考えさせられたに違いない。生とは何か、死とは何なのか。それを考えると、如何に自分が下らない人間なのかということを思い知らされる気がする。

特攻隊としては圧倒的に神風特攻隊(ちなみに正式には「しんぷう」だそうです)が有名だが、そのほかにも戦争中は信じられないほどの「特攻」があった。神雷部隊と呼ばれた「桜花」部隊、神潮部隊と呼ばれた「回天」部隊、戦艦大和海上特攻、震洋部隊、そして伏竜部隊・・・

「桜花」とは、陸上攻撃機から今で言うミサイルに乗り込んで、敵艦に特攻を仕掛けるというものである。後部にロケット噴射口が取り付けられており、攻撃機から切り離された後は、「操縦士」が狙いを定めて突っ込む。弾頭に1.2トンの爆薬を詰め込んでおり、直撃を食らえば戦艦でも危うかったという。しかし、桜花を腹に抱えた攻撃機は非常に鈍重であり、桜花を投下する前に撃墜されてしまうことも多かった。

「回天」とは、人間魚雷のことだ。潜水艦から発進し、魚雷を「操縦」して敵艦に体当たり。炸薬量はほぼ桜花と同じだ。回天は潜水艦から「発射」する兵器であるが、脱出口はその目的上設置されておらず、発射されたが最後、もうこの世から去るしか道は残されていない。

戦艦大和海上特攻は、もう映画になっているほど有名な話であるから細かい説明は要らないだろう。

震洋」とはモーターボートでの特攻であり、「伏竜」とは爆薬を持った潜水士が直接敵艦の腹を爆薬のついた竿で攻撃するというものだ。






彼らは特攻から逃れることが出来なかった。生きて帰ることを望まれず、自ら望まない人もあっただろう。出撃の前日まで勉強をしていた人も居た。






正気の沙汰じゃない。可哀相だ。戦争は良くない。平和を守ろう・・・






今の平和な時代からすれば何とでも言える。でも、決してそんな風に総括できる問題じゃないと思う。彼らの気持ちは、その状況に立ったことのない自分にはわかるはずもない。どれほどわかろうとしても、わからないだろう。しかし、どんなにわからないことでも、考えなくてはならない。

自分にはわからない世界。でもそうやって亡くなっていった人が大勢いることは事実としてある。どれほどわからないことでも、それは事実であり変わらない。だから、それを知らないことは、考えないことは、愚かだと笑うことは、彼らへの冒涜だと思う。

普通に生きていれば、死なんて望むことはあまりない。それはいつの時代でもそうだと思う。生への執着というのは、人間の本能的なものだろう。それなのに、本能に反して死地に立たされる。自ら向かわされる。

靖国神社には、そのような人々が大勢祀られている。靖国参拝問題は政治的に色々と騒がれているが、特攻隊の人々が靖国神社に祀られているのも、事実なのだ。だから、靖国神社は戦争美化につながるから、マスコミがダメだと言っているから、A級戦犯が祀られているから、そんな理由で何もかもを否定しないで欲しい。政治的に参拝するかどうかは別問題なのだから。

戦争は良くないもの。それは絶対的なものだ。やらなくてすくのならば、やらないほうが良いに決まっている。そして過去に起こった戦争を反省するのも当然のことだ。だから教科書には、戦争の反省文が多く書かれている。それは時として軍人として戦った人々の全てを否定するような意味になる。しかし、そうではない。彼らも被害者なのだ。戦争という時代に飲み込まれた被害者なのだ。

今、自分は決して褒められる生き方をしていない。だからと言って悪いことをしているわけではないが、良いことをしていない。毎日毎日を何となく過ごしてしまっている。毎日を充実させるとまでは行く必要はないと思うが、それでも目的を持って、しっかりと強い意志で生きていきたい。

戦争を学ぶというのは、人の生き方を学ぶことなんじゃないだろうか。ようやくまともに物事を考えられるようになってきた今こそ、改めて色々と考えてみたいと思う。