お洒落早慶戦

早大生と慶大生はどっちがお洒落なの?」と聞かれたら、日本国民のほとんどが「慶応!」と即答することでしょう。慶応をろくに見たことの無い自分には良くわからないけれど、新百合に住んでいる某慶応ボーイの話によると、かなりすごいらしい。ボンボンが多くて、免許取り立てでベンツ乗ってたり、家持ってたり、高い時計してたり・・・

慶大生の方が、基本的にお金持ちの家庭が多く、早大生よりも平均お洒落度が高いというのは、それほど間違ってないかもしれない。別に慶応をうらやんだりはしていないし、野暮ったい(?)早稲田の方が自分の性に合っていて落ち着く。

ただ、慶応ボーイに「慶応の方が早稲田よりお洒落ですよ」と言われると、癪に障らないといえば嘘になる、正直に言って、結構イライラする。実際にそう言われたわけなのですが、ちょっと腑に落ちないので文句を書くことにしましょう。

どこの慶応ボーイに言われたかというと(ちなみに新百合の某慶応ボーイではありません)、駿台での出来事だった。正確に言うと、駿台横浜校のTAのやつ。面識は全くありません。じゃあどこで知ったのかというと、弟が持って帰ってきたTA通信なるプリントだった。駿台のTAが大学と自分自身について書くプリントなのだけれど、そこの慶応ボーイ(商学部)の彼の「早稲田と慶応はどこが違うのですか?」という質問に対する答えが「学力的には大差ありませんが、慶応の方がお洒落ですよ」と。

これを見たときは「いやーこいつ阿呆だわーそういうこと訊いてるのかよ」と思ったけれど、今となっては質問の真意がなんだったかということなんかはどうでも良いのです。「果たして慶応は本当に早稲田よりもお洒落なのか!?」それを考察していきます。まぁ、そうは言っても、実際に慶応に行ったことのない自分が比較できるわけも無いので、お洒落の定義になってしまうのだけれど・・・というわけで自分的お洒落論です。

言うまでもないことだが、「お洒落」とは決して高い服を着ることと同義ではない。高くても品のない服はたくさんあると思うが、それよりも忘れてはならないのは、「服は自分に合わせるものであって、服に自分を合わせるのではない」ということだ。「何をいまさら」と思われるかもしれないが、実は忘れていることも多いんじゃないかと思う。そして、それ以外にも大切なことはたくさんある。それらの多くのルールにどれだけ適合することが出来るかどうかということが、どれだけお洒落なのかということに一致するのではないだろうか。

例えば、自分は基本的にモノクロの服を好む。色々と印刷されていたり、マークが入っていたり、文字が入っていたりと、最近の服はワンポイントすらないシンプルな服からドクロが描かれているちょっと外れた(適切な表現が思いつかない)服まで色々な種類がある。でも、その中でも自分はシンプルなものしか選ばない。廣瀬は逆に何かマークや文字が入っているほうが好きなようだ。

別にどっちがお洒落だとか言うわけではない。それは単なる好みの問題だ。そして自分は決して色々とある服が嫌いなわけではない。それだけは勘違いしないでください。

なぜ自分は、色々と印刷されている服を選ばないのか。それは、単純に「似合わない」と思うからだ。「似合わない」というのは何も外見だけの話ではなく、性格的な面も考慮してのことだ。誰しも、好みというものはあるし、恐らく服を買うときは無意識のうちに自分に合った服を買うだろう。だから同じような服がある程度集まるんじゃないだろうか。

自分の性格がどのようなものかということを言葉にして説明するのは非常に困難であるが、ひとつ強いてあげるとすれば、自己主張というものが基本的に得意ではない。「やれ」と言われれば、主張するが、求められないところで無理に自分を出すことは無い。だから、他人からは基本的に暗いと思われると思うし、とっつきにくいと思う。

そんな自己主張を得意としない自分がもし、ドクロがプリントされて「go to hell」と書かれたようなシャツを着ているのは、変じゃないかと思う。別に知らない人からすればそんなことは知ったことではないのだけれど。もしかしたら、自己主張が苦手な人が「せめて服くらいは主張したい!」と思って、あえてそういった服を着るかもしれない。それはそれで良い。主張が苦手なだけで、主張したくないわけではないからだ。行動ではなく、あくまで気持ち・性格にあった服を着るというのは大切だと思う。そういった意味で、廣瀬の着ている服というものは彼の性格と合っていて、似合っていると思う。万人に似合う服などないのだ。

というわけで、一つ目の自分的「お洒落」の条件は、「自分の性格にあった服を着る」ということだ。「自己との一体感」と言っても良いだろう。

それから、また具体的な話になるが、例えば、花火大会の会場を考えてみる。高3のときから、横浜の花火大会に行くようになったが、花火大会の日には、浴衣や甚平の人が非常に多いことに気づく。こういう風景を見ると「あぁ、日本らしいな」と思い、「自分も来年はそうしようかな」と思う。

江戸時代から存在する(もしかしたらもっと前からあるのかも)日本人統合の季節行事である花火大会において、浴衣や甚平を着るのは、非常に風流で良いことだと思う。でも決して許せない(まぁ他人が何を着ていようとどうでも良いのですが)ことがある。それは、浴衣や甚平なのに、「バッグ」を持つ人々やサンダルをはく人々。さすがにサンダルをはく人は少ないだろうけど(というかいないかも)。

浴衣や甚平を着ているときに、洋物のバッグを持つなど、雰囲気を壊すこと甚だしい。もっと言わせてもらうならば、サンダルはおろか、裏にゴムの付いた下駄を履くのもどうかと思うし、洋物の財布を持つのもどうかと思う。花火大会のときに浴衣や甚平を着る風流心(まぁ雰囲気を楽しんでいるだけかもしれないですが)があるのに、それをあえて壊すのでは意味が無い。

もうひとつ例を挙げれば、塾講師の話がある。塾講師は、他のカフェなどのアルバイトと違って、社会的責任が大きく、ビジネス意識を強く求められる特殊なアルバイトである。だからこそ、たいていの塾は、アルバイトにもスーツを義務付けているし、言葉の使い方にも気を使うのである。

そのような塾講師のアルバイトでは、ドレスコードは当然厳しくなる。スーツといっても、派手な色などは避けなければならないし、ストライプなどでも気をつける必要がある。同じスーツでもホストとは違うのだ。あるいは、スーツを義務付けていない塾もあるだろう。そのようなところでも、恐らく白衣などを貸し出され、着ることを求められるだろう。

そのような環境であっても、それを守らない人も当然いる。スーツ着用と言っても、ホストのような派手なものを着てくる人もいれば、下は私服で良いからといってそれこそドクロや反社会的な言葉(大げさだけど)が印刷された服を着てくる人もいる。彼らはその職場を離れれば、ドレスコードに忠実な人間よりも「お洒落」と言われるだろう。もちろん、第一の条件の「自己との一体感」に大きく反していればそのような評価を受けることもないだろうが。

この二つの例から求められるお洒落の条件とは何か。それは「場との一体感」と言えるだろう。それは主に冠婚葬祭を初めとする公的な場で求められることが多いが、それ以外でも上の花火大会の例のように、場の雰囲気を壊すような格好をお洒落と呼ぶことは出来ないと思う。

それからもうひとつ。まとめた言葉にすると「自己との一体感」ということになるのだが、最初の方とは少し違う。最初の方の「自己」とは、内面の自己の意味合いが強かった。今度の方は、社会的な立場から見た「自己」になる。年功序列という言葉は死語になりつつあるが、ここには決して忘れてはならない考えがあると思う。最近では、年を取るということが忌み嫌われているが、ワインが古いものほど味が出るように(そうなのかな?)、人間も年を取るごとに基本的には人間的な重みというものが増す。人間的価値を客観的に測定することは出来ないが、それを社会的立場ということに置き換えて考えてみても、それほど問題はないだろう。

社会的立場を大きく分けるとすれば、子ども・学生・初級社会人・中級社会人・上級社会人・隠居となるだろうか。詳しいことは社会学者やその辺に任せるとして、自分的にはこれくらいに分けるのが丁度良い。社会人を3段階に分類したが、これはその人の年齢や地位を考慮した。社長と新入社員を、あるいは大企業の人間と個人企業の人間を同じように扱うのには多少問題があるだろうからだ。当然のことながら、そこには人間的な価値が含まれていないので、立場が上になるほど人間的に価値があるわけではないし、偉いわけではない。だが、人間的価値よりは客観的だろう。

自分が、今つけている腕時計はスウォッチの1万円のものである。腕時計としては、普通の部類に入ると思う。1万円というのは大金だが、ちょっと無駄遣いを我慢すれば大学生ならすぐたまるレベルなので、決して高級ではない。ましてや時計なのだ。これは、学生が身につけるレベルとして適正の範囲にあると思う。

時計には、何百万円もする高級なものがある。時を計る機能としては100円の時計も高級時計も変わらないのだが、やはり価値は違う。大学生がブルガリカルティエ、ロレックス、オメガの時計を身につけるのは、分不相応も甚だしい。前にブランドについて考えたが、それに通じるものがある。

1万円のスウォッチの時計と、200万円のカルティエの時計。価値はもちろんカルティエの圧倒的勝利。だが大学生が稼いで手に入れるのは、ほぼ不可能と言って良く、もし仮に世の中の大学生がみんな手に入れられるようになったら、終わりだろう。

自分で稼げる範囲で身につけるものを手に入れる。この考えは「お洒落」に大きく影響を与える。大企業や医者の御曹司が、カルティエの時計を身につけていた。でも、果たしてそれは「お洒落」と呼びうるだろうか。もちろん、自分は認めない。むしろ、「恥ずかしくないのか?」と嫌味や妬みではなくて純粋に聞いてみたい。「自分は親に頼っているんですよー」ということを意味しているからだ。大学生にもなったら、経済的には無理でも、精神的にはそろそろ親から脱却するべきだ。

何でも高ければ良いのではない。自分の社会的立場や、自分自身の人間的価値への評価を踏まえて、身につけるものを選ぶ人こそが「お洒落」ではないか。

他にもお洒落に必要な条件はたくさんあるだろうけれど、最低限「お洒落」と呼ばれたいのであれば、「自己との一体感」と「場との一体感」という条件を守るべきだろう。何でもかんでも、たくさん服を買って、とっかえひっかえ着替えるようなのは「お洒落」ではなく、単に「服をたくさん持っているだけ」なのだ。一般的に高い服は品質が高いので、そういった意味で高い服を買うのは良いのだが、ブランド品の名に振り回されて「自己」や「場」を見失うような人間は決して「お洒落」ではなく、単なる成金だ。

必ずしも流行に乗る必要は無い。自分が「たまたまそのとき」の流行に合わないのに、無理して流行にあやかろうとするのは、逆に見ていて惨めだ。「お洒落」とは自分の立場から見て納得できるものであるべきであるし、他人や社会の立場から見て認められるものでなければならない。

結局「お洒落」というのは、自分自身を知ることと、社会を知ることに他ならない。自分についても社会についても知っている人こそが、「お洒落」と呼ばれるべきなのではないか。どれほど「大人」なのかということが「お洒落」なのではないか。

だから、決して慶応の方が早稲田よりも「お洒落」だなんて思わない。見た目を磨くことよりも、中身を磨く方がよほど大切で格好良い。なんだか陳腐な結論になってしまったが、スッキリした。日記は良いものですね笑。

最後に慶応生のみなさん、気分を悪くしないでください笑。