有言実行?不言実行

「有言実行」の四字熟語は国語的には存在しない言葉(のはず)だが、今では不言実行以上に使われている言葉だと思う。不言実行は、実行する際に自分自身にしかプレッシャーをかけないために、有言実行に対して実行率が低いとして、現在ではあまり使われない。

受験でも、有言実行が奨励されていた。ビジネスでもそうだろうし、日常生活でもそうだ。でも、本当に有言実行は良いのだろうか。どうも疑問に思う。

きっかけは、『論語』だった。論語に書いてあったのは、不言実行とも有言実行とも少し違ったニュアンスだった。むしろ、逆と言っても良いほどだ。孔子は、言葉を軽はずみに使うことを嫌った。非常に言葉に対して慎み深い人だった。また逆に行動は積極的に行う人だった。孔子は、行動に移して成功してから初めて言葉として他人に語って良いという姿勢だった。無理に四字熟語にするならば「成行可言」と言ったところだろうか。

結論的な部分から言えば、自分は「有言実行」をあまり評価しない。孔子はあまりに言葉を慎みすぎていると思うが、「有言実行」はあまりに言葉を軽んじ、自主性を損なわせるものだと思うからだ。ではその過程を・・・

人間は、もともと強い生き物ではない。身体的にも精神的にもだ。だからこそ、人間は文明を築き上げ、群れるのだ。その点をまず第一に認めることが大切だと思う。自分達が人間について語るときに、時として、モデルの人間を完全な人間と仮定しがちであるからだ。対外的には天候や気温、時間などによって、対内的にはモチベーションや人間関係などによって大きく結果が左右される。

人間は、自分自身に対して課した問題を、自分に忠実に行うことを非常に苦手としている。だからこそ、誰もがダイエットに悩み、学力不足に悩み、貧乏に悩むのだ。「明日からお菓子を一切食べない!」と宣言して、それが一体何日持つだろうか。「今日から一日10題問題を解く!」と言って、何日まで続くだろうか。「今日からは無駄を切り詰めて一日1000円しか使わない!」と言って、何日我慢できるだろうか。

そんな日数はたかが知れているのだ。だからいくら科学的で楽な方法が提供されようとも、ダイエットやタイムマネジメント、出納帳が書店から消えることはない。

人間は、自分自身に対する約束だけでは、己の目的を実行しきることが難しいことに気がついた。そこで思いついたのが、他人に自己の目的を話すことによって、自分自身に対外的なプレッシャーをかけようという方法だ。確かにこれは効果的だと思う。目的を話した以上は、果たせないとみっともないから、意地でもやろうという気持ちになる。これが本来の有言実行の効果である。

しかし、有言実行は対外的プレッシャーであるが故に、それ特有の欠点がある。それは、恥をかくことをそれほど気にしない場合には、全く効果が得られないことだ。他人に対して一方通行的に目的を話しただけなので、目的が果たされようが果たされまいが、結局聞かされた方には何の損得は発生しない。つまり、有言実行によって得られるのは、「責任」ではないのだ。結局、最終的には本人次第になってくるわけだ。

ビジネスの場における「責任」は必ず果たさなければならないものなので、強制的に自身を働かせる効果があるが、単なるプレッシャーでは活動動機にはなっても、止めてしまう自分を引き止める要件にはならないのだ。

ここまでならば、何ら問題はない。だが、有言実行が、目的達成の主要素になってしまうことは好ましくない。本来、目的達成の主な動機は自己への約束であるべきである。目的を達成することによって、利益を得るのは自分自身に他ならないのだし、意志力の強さは人生のあらゆる場において問われる力だからだ。有言実行とは、自分自身に対して100%負うべき責任を、半分他人に持ってもらっているようなものだ。そうすると達成への願望が弱くなるのは必然であるし、負荷がかからない状態では意志力もどんどん低下していき、ますます依存度を高めてしまう可能性すらある。

前にも書いたように、人間は弱い生き物であるため、全てを自分でまかなうことはほとんどと言って良いほど不可能だ。だから有言実行自体は悪ではない。しかし、それを用いる人間が頼りすぎてしまっては、本末転倒になる。あくまで自分の力で出来る限りを引き出し、足りない部分だけを有言実行によって補うのが現実的な理想ではないだろうか。基本は「不言実行」で、時々「有言実行」で。それがあるべき道ではないだろうかと思う。