続・続・学校歴史の意義

日本はいまだ学歴社会であり、これからもその傾向が変わりはしないだろうことを述べた。学歴社会をやわらかく言った言葉がブランド志向だ。結局表現の違いに相違ない。

つまり、将来的に仕事人としては必要ない学問が、学歴を得るために学ばれていく。人間性の向上ではなく、単により高い壁を登るための脚立として使われるのである。そんな学問に、意義があるとは思えない。学問は食べ物であるべきであり、道具ではないのである。己の知の血となり肉となってこそ、その意義を発揮するのである。

食べ物であるべき本質を外れた学問に、面白さが宿るはずがない。面白さがない学問に、知的好奇心が掻き立てられることはない。知的好奇心が掻き立てられない学問に、頑張ろうという気持ちが起こるはずがない。だから、数学や英語に比べて実用性の低い(と勘違いされている)歴史は嫌われるのである。

人間は、多角的な視点を持ってこそ、己の力を引き出すことが出来る。確かに、歴史は外国人とのコミュニケーション能力を高めることはないし、計算力を高めることもない。文章が上手くなるわけでもないし、人間の発達を促すことも少ない。

だが、そんな歴史こそが最も多くの視点を論理的に学ぶことが出来る学問なのだ。数学のような論理的視点を持ちながらも、国語のような情緒力もある。これほど多くの視点を持つ学問は他にはない。

だからこそ、学校における歴史の授業では、その利点を最大限に活かすべきなのだ。歴史という重箱に詰められた食べ物の食べ残しのような部分を拾い集めるのではなく、その食べ物を食べて栄養を取ることこそを目的とすべきなのだ。事細かな知識が人間性を育てることはなく、結局論語読みの論語知らずを育てるだけだ。

歴史は暗記するものだと思っている人が余りに多すぎる。そしてそれによって歴史の真の面白さを知ることなく、嫌いになっていく人が多すぎるのが哀しい。歴史小説を読むだけでも良い。むしろ歴史小説にこそ、歴史の人間性が最大限に込められているのだから、一番良い道かもしれない。