愛国心関係なかった。

さて、別に過去にどこかで沸騰したような重い議題を持ち上げたいわけではない。じゃあ何かというと、ちょっとしたことだ。別に新しい発見をしたわけじゃない。ただ言葉にして改めて認識しただけだ。それについて書こう。

2週間ほどオーストリアに行った。テレビもパソコンもなく(正確にはテレビはあったが言葉がわからず、パソコンはネットに繋がらなかった)、ほぼ完全に外界から遮断された状態にあった。そして自分の仲間(親戚だけど)以外にまともに喋ることはない。さらにオーストリア内陸国だから新鮮な魚が食べられない、刺身なんてもっての外だ。




さて、この脈絡のない話、一体どこに共通点があるのか。




それは「今まで持っていたものを失う」ということだ。日本に住んでいる自分達は、常に少数でない誰か話す相手がいて、テレビやネットや携帯電話で家に篭っていても外界との接点を辛うじて保つことが出来、望めば大抵いつでも美味しい寿司や刺身を食べることが出来る。

それを自分達は当たり前のことだと思っている。なぜなら生まれてこの方それを欠かしたことが無かったからだ。それを突然失うということがどういうことなのか、それを知る術はない。自ら失おうという意思を持つ人間はいないだろう。

だが、当たり前のことを失うという経験を今回自分はしてきた。もちろん大したレベルではない。アフリカの子どもが飢餓に脅かされているなどという話と比べるだけでも失礼なレベルだ。しかし、大切なことだ。

人間は失ったものを諦めることは無いのではないかと思う。諦めることが出来るというのは、例えどんな状況であれ、「捨てた」のではないだろうか。「失った」のではない。

人間は「得た」ものを忘れない。忘れることが出来ないのかもしれない。だから、「捨てた」のでない限りは、元に戻るわけではない。要らないものを捨てればすっきりするが、意図せずに何かを失ってしまったら、ずっと後悔するだろう。失ってしまったら、スタートラインに戻るわけには行かず、その場を新たなスタートラインにしなくてはいけない。

突然、一時的にではあるが日本語を失い、仲間を失い、あるべき食べ物を失った。何度も言うが、これが「失う」に相当する価値のあるものとは言えないだろう。だが、本質は同じだ。

さて、今日は疲れた。まぁもともとそんなにまとまった話じゃなかったからここで終わりにするかな。ただこれは人生全般に言えることだと思う。それだけは確信している。じゃあ、休みます。