テストの不思議

id:realizationの日記にとある人からコメントがあった。まとめると「大学受験は教養試験だけで楽で良いね」みたいな感じだった。こういう人は実に「バカ」だと思う。普段友達とお互いよく使う「バカ」とは全然意味が違う。全く笑える要素が含まれていない「バカ」だ。救いようがないとは言えないかもしれないが、救う気すら全く起こさせない「バカ」だ。ちょっと言いすぎかな・・・でもそれくらい怒ったということで直しません。

後期試験を控えて、心身ともに緊張状態にある後がないとも言える浪人生に対して、「楽で良いね」という精神はどうかしているだろう。ただでさえ、id:realizationは京大という最高学府を目指して厳しい戦いをしているというのに、それを全く配慮できない。しかし現実にそういう人は他にもたくさんいるだろうし、自分だって過去にそんな発言を無意識に幾度となく繰り返してきたことだろう。

普段だったら、(あぁ、バカな奴がいるな)と多少イライラするくらいで済むだろう。しかし、そこからコメント者の日記に飛んで見てみて、その内容の酷さに怒りがこみ上げてきた、そして哀れに思えた。全く同情する気などはないけれど。

どうやら彼は公務員(国家2種以上)を目指して公務員浪人中らしい。その日記の中で「3種公務員(警官・教師)は『低脳』だ」と言い放った。これは警官にも、教師にも憧れた自分としては聞き捨てならない。全く聞き捨てならない。

彼が何ゆえ国家2種を受けようとしているのか知らないし、知りたくもないが、低脳と言われる筋合いは全くない。結局そういった資格でしか人の素質を判断できず、社会的地位のみに人生の重きを置いているのは非常に哀れだと思う。

確かに国家公務員に比べれば、教員への道などはたやすいものだろう。なるのは簡単と言われても仕方ないかもしれない。では、なった後はどうか。決して公務員が楽な仕事と言っているのではなく、教師はそんな気楽な職業ではないということを言いたい。それどころか気楽にやっていける職業があると思うこと自体、どうだろうか。「気楽にやれば良いよ」なんて思えるのだとしたら、その職に誇りを持てずしてコンプレックスを抱いているか、単にビジネスをなめているだけだ。アルバイトなら良い、人生を掛けるものではないからだ。だが、社会に出て、「仕事」となったからには、そう甘い話などではない。

話がずれた。では国家2種以上の職につく人間に比べて、3種の人間は「低脳」なのか。答えは当然のことながら否である。その理由を挙げてみよう。と、その前に「低脳」ではなくて、普通なら「低能」だと思うのだけれど、これはどうなんだろう・・・?ここでは仮に正しい「低能」だとする。

そもそも、大前提としてある「低能」とは何か。読んで字の如く、能力(知能の場合が多いが)が低いことだ。広辞苑から引用すれば、「知能の発育が普通より低いこと。また、その人」とある。これが正しい意味らしいのだが、ここでは、相対的に(国家2種以上と3種との比較)能力が低いということを意味しているのだと思う。

では、その能力とはなんだろう?国家試験で出る問題にどれくらい正解できるか、合格できるかということだろうか。そうだと思っているとしたら、彼は教師を見下しているが、まさに日本戦後学校教育の申し子、あるいは被害者であると思う。

能力をテストのみで測定しようとするわけだ。確かにテストは能力測定に有効な手段だろう。だからこそ入学試験が行われ、定期試験が行われ、知能試験が行われるのだ。しかし、そこで測定できる能力は、そのテストの範囲に限定される。数学の試験で日本史の実力を測ることはできず、TOEICで全ての語学力がわかるわけではなく、知能試験で体力がわかるわけではない。

テストは人間の多々ある能力の一部分を切り取り、その限定されたレベルを測定しているに過ぎない。それが大事なところだ。

つまり、フィールドが違うということだ。一般に言う国家公務員と教員の能力を比べること自体おかしい。「サッカー選手と野球選手のどっちがすごいの?」と言っているようなものだ。もっと近づけてみれば「経営トップの社長と社内一のエンジニアはどっちがすごいか?」でも良い。社長に「技術職をやれ」と言ってもエンジニアにかなうはずもなく、社内一のエンジニアに「経営刷新を頼むよ」と言っても無理なことだ。

それと同じことが国家公務員と教員にも言えるのは明らかだ。仮に彼が言うように、国家公務員の方が教員よりも有能だとしよう。では国家公務員なら、エリートなら学校で上手く授業をこなし、生徒との良好な関係を維持し、生徒の将来に責任を持てるような仕事が出来るというのか。もちろん、上の文章は理想であって、本職である教師にすら難しいことだ。しかし、理論上教員よりも有能だったら出来るのではないか。

無理に決まっている。その理論が根本的に間違っているだけではなく、全ての職にはその職の特殊性が備えられているからだ。教員には思春期の人間とのコミュニケーション力が不可欠であるし、官僚にはコネが不可欠だ。それは逆にしたらお互いにほとんど必要ないだろう。

結局、社会に出て重要なのは、スペシャリストになることと、プロ意識を持つことだと思う。自分が進んだその道での高みを目指すことだ。野球選手がサッカーやバスケまで極める必要なんてない。教師が国家公務員にコンプレックスを持つ理由なんてない。エンジニアが社長を妬む必要なんてないのだ。

今ある自分に誇りを持つ。それが求められる。ただ一つ気をつけたいのは、誇りを持つのは良いが、過信や根拠のない誇りを持つことだ。それには大いに気を払おうと思う。